初代 神武天皇 3.那賀須泥毘古との戦い

かねてよりの疑問があります。

そもそもどうして『ヤマト』に行こうと思ったのでしょうか??

あの美しい高千穂の地を捨てて...


それよりもなぜ、東の方によい国があるなんて思ったのでしょうか??

この神武東征が非常に厄介なのはそこなのです。


そしてそれは、いままでの「神代編」と違って、神話の部分だけで説明しようと思うと、日本史という要因がしばしばその邪魔をして、これらの論旨を悉く崩していってしまうからなのです。


なので、神武東征とは、イコール「稲作の普及」なんだと考えれば、とても納得がいくのであります。



それ以上の説明が必要なくなります。



しかし、記紀にはそれだけでは整合性がつかない表記がたくさん、いや、むしろ、稲作なんてことは逆にどこにも書いていない、中央集権統治が完了するまでの物語です。

そんな、神話と歴史の狭間で姥貝ていくだろうという葛藤が、暫くは筆者のライフワークになっていくのでしょうね。



楽しきかな~



さて、イツセとイワレビコは、いよいよ、とても順調にヤマトへと近づいていくのでしたが...



(現代語訳)

その国から出発して東へと向かいました。

浪速の渡(ナミハヤノワタリ)を通って白肩津(シラカタノツ)に船を泊めました。

そのときに、登美(トミ)の那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)が兵を集めて待ち受けていて、戦争になりました。




※進路を確認しておきます。

その国→吉備 (=岡山県)

 ↓

ナミハヤ (=浪速、難波、つまり大阪です)

 ↓

シラカタツ (=東大阪市日下の船着場)

 ↓

登美 (=現在の生駒山の西の「鳥見郷(トミノサト)」、奈良県富雄町)


那賀須泥毘古は、日本書紀によれば「ナガスネ」は村の名前なので、ナガスネと言う土地の人物だから「ナガスネヒコ」と言うだけのことであります。

『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれます。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物で、安日彦(あびひこ)という兄弟がいるとされています。



(現代語訳)

那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)が戦いを挑んできたので、神倭伊波礼毘古命と五瀬命は船から「盾」を取り出して船から下りて戦いました。

その土地を名付けて盾津(=タテツ)といいます。

現在は日下の蓼津(タデツ)といいます。



ついに戦争になってしまいました。

古事記で戦いというのは初めてですね。


ところで原文には「下り立ち」という表記なので、これは「陸」で戦ったのでしょう。

実は、これまで「陸」で戦ったことはありませんでしたね。

戦い自体がなかったのでしょうが、例えば、山幸彦(ホヲリ)のときも、すべて海で事が起きております。

ここはポイントで、日本は四方を海に囲まれていますので、そもそもが海を舞台にしていることが多いのですね。

陸での戦いで、一体、勝算はあるのでしょうか??



もうひとつ気になるのが、蓼津(タデツ)、「盾」を取り出して戦ったとありますが??


盾で戦いになるのでしょうか??


そう、盾は防具です。一体、攻撃の武器はなにを使ったのでしょうか??

恐らく、これは「戦っていない」のだとすると話がまとまります。

古代、盾は宗教的なものでした。そして、これは盾を掲げることで敬意を表したのだと思われます。

しかし、拒絶されたのですね。

交渉決裂なのです。


このあと、イワレビコさまたちはどうなってしまうのでしょうか??



つづく...





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