かねてよりの疑問があります。
そもそもどうして『ヤマト』に行こうと思ったのでしょうか??
あの美しい高千穂の地を捨てて...
それよりもなぜ、東の方によい国があるなんて思ったのでしょうか??
この神武東征が非常に厄介なのはそこなのです。
そしてそれは、いままでの「神代編」と違って、神話の部分だけで説明しようと思うと、日本史という要因がしばしばその邪魔をして、これらの論旨を悉く崩していってしまうからなのです。
なので、神武東征とは、イコール「稲作の普及」なんだと考えれば、とても納得がいくのであります。
それ以上の説明が必要なくなります。
しかし、記紀にはそれだけでは整合性がつかない表記がたくさん、いや、むしろ、稲作なんてことは逆にどこにも書いていない、中央集権統治が完了するまでの物語です。
そんな、神話と歴史の狭間で姥貝ていくだろうという葛藤が、暫くは筆者のライフワークになっていくのでしょうね。
楽しきかな~
さて、イツセとイワレビコは、いよいよ、とても順調にヤマトへと近づいていくのでしたが...
(現代語訳)
その国から出発して東へと向かいました。
浪速の渡(ナミハヤノワタリ)を通って白肩津(シラカタノツ)に船を泊めました。
そのときに、登美(トミ)の那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)が兵を集めて待ち受けていて、戦争になりました。
※進路を確認しておきます。
その国→吉備 (=岡山県)
↓
ナミハヤ (=浪速、難波、つまり大阪です)
↓
シラカタツ (=東大阪市日下の船着場)
↓
登美 (=現在の生駒山の西の「鳥見郷(トミノサト)」、奈良県富雄町)
那賀須泥毘古は、日本書紀によれば「ナガスネ」は村の名前なので、ナガスネと言う土地の人物だから「ナガスネヒコ」と言うだけのことであります。
『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれます。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物で、安日彦(あびひこ)という兄弟がいるとされています。
(現代語訳)
那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)が戦いを挑んできたので、神倭伊波礼毘古命と五瀬命は船から「盾」を取り出して船から下りて戦いました。
その土地を名付けて盾津(=タテツ)といいます。
現在は日下の蓼津(タデツ)といいます。
ついに戦争になってしまいました。
古事記で戦いというのは初めてですね。
ところで原文には「下り立ち」という表記なので、これは「陸」で戦ったのでしょう。
実は、これまで「陸」で戦ったことはありませんでしたね。
戦い自体がなかったのでしょうが、例えば、山幸彦(ホヲリ)のときも、すべて海で事が起きております。
ここはポイントで、日本は四方を海に囲まれていますので、そもそもが海を舞台にしていることが多いのですね。
陸での戦いで、一体、勝算はあるのでしょうか??
もうひとつ気になるのが、蓼津(タデツ)、「盾」を取り出して戦ったとありますが??
盾で戦いになるのでしょうか??
そう、盾は防具です。一体、攻撃の武器はなにを使ったのでしょうか??
恐らく、これは「戦っていない」のだとすると話がまとまります。
古代、盾は宗教的なものでした。そして、これは盾を掲げることで敬意を表したのだと思われます。
しかし、拒絶されたのですね。
交渉決裂なのです。
このあと、イワレビコさまたちはどうなってしまうのでしょうか??
つづく...
0コメント