そういえば、またちょっと偏屈な物言いをいたしますが...
戦国時代って言い方、いまでもしているのですかねぇ??
筆者はあの言い方が嫌いなんです。
いや、嫌いというか違うからなんです。
恐らくは中国の「春秋・戦国時代」から来ているのでしょうね??
となるとですよ、この戦国の名前の由来は「戦国策」から来ているのですね。
「戦国策」とは、前漢時代の劉向という学者が、この時代の遊説の士の言説、国策、献策、その他の逸話を国別に編集し、まとめ上げた全33篇にわたる書物のことを言うのですね。
なので、日本の戦国時代とは全く関係ありません。
さらに言えば、戦国というと国じゅうで争っていたという感がありますが、果たしてそうでしょうか??
そしてみんながみんな天下を狙っていたというイメージを持たせてしまうのは問題ではないでしょうか??
敢えて申し上げれば、この時代に明確に日本国を統一しようよいうイメージを持ったひとはただ一人徳川家康だけです。
織田信長の「天下布武」の「天下」とは「京都(広義において京都・室町幕府の再生)」、また秀吉の主眼は「検地」でした。
そうなのです。
日本の歴史というのは「稲作国家」
つまり、土地、地べたのことを軸に考えれば、おのずとその時代の人間がなにを目指していたかが明確にわかります。
源氏がそうでした。源氏と平氏の大きな違いはその部分です。なぜなら源氏は東国に勢力圏を求めたからです。求めたというより民が源氏を頼ったのです。
北条や毛利はそれぞれ関東圏、中国圏の域を出ませんでした。だって、彼らはその領地と領民を繁栄させることが使命だったからです。謙信に至っては、既に形骸化していた関東管領を実直に行使することに喜びを見出しました。なので、室町幕府を復興させるために上京を予定し、その半ばで倒れた訳で、信長と戦うために上京しようとした訳ではありません。それは、今川も武田も同様です。
ここを間違えてはいけません。
つまり、戦国時代といういいかたはおかしいのです。
わたくしは「群雄割拠時代」と呼んでいます。但し、この言い方も100%正しい訳ではありません。
でも戦国時代よりはずっとよいと思います。
また、つまらない前置きが長くなってしまいましたが、この「神武東征」(この言い方も別の正しい言い方に変えましょうね...)も、前述に同じく、「稲作国家日本」という軸を持って読んでいくことをお薦め申し上げます。
さて、前回のつづきです....
(現代語訳)
このとき歌った歌が……
宇陀の 高城に 鴫罠張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし 鯨障る 前妻が 肴乞はさば たちそばの 実の無けくを こきしひゑね 後妻が 肴乞はさば いちさかき 実の多けくを こきだひゑね ええ しやこしや こはいのごふそ ああ しやこしや こは嘲笑ふぞ
――と歌いました。
その弟宇迦斯は宇陀の水取(モイトリ)の祖先です。
※歌の意味
宇陀の高原に 鴫の罠を張ります。
私が待っているシギは掛からずに
鯨が掛かった。
古い妻が肴を欲しがったら、
肉の少ないところを、へぎとってあげると良い。
新しい妻が肴を欲しがったら、
肉の多いところを、へぎとってあげると良い。
えーシヤシコヤ
あーシヤコシヤ
※「えーシヤシコヤ」は、囃し言葉で、「こいつめ」という意味です。相手を威嚇することばです。
一方、「あーシヤコシヤ」は嘲笑うことばです。
※ここで歌われる歌は、「久米歌」です。この久米歌は大嘗会などの宮廷の儀礼で久米舞をするときに歌うものですが、本来は久米氏の戦いのときの宴会で歌った歌だろうと思われます。
※「古い妻には肉の少ないところと、新しい妻には肉の多いところを」
この部分、大事なポイントです。
実はイワレビコもそうなのですが、何故末子が継承しているのでしょうか??
これは末子というより「新しい妻」がポイントなのですね。
単純に新しい妻は可愛い、そしてその子も可愛いという側面が、こんなところからも窺えます。
(現代語訳)
そこから(エウカシを倒した宇陀の地)から、イワレビコは忍坂(オサカ=現在の奈良県桜井市忍阪)の大室に到着しました。
すると尾の生えた土雲(ツチグモ)という大勢の男たち…土雲八十建(ツチグモヤソタケル)…が岩屋で待ちうけて、うなり声を上げていた。
ここ(忍坂)にやってきた天津神の皇子であるイワレビコの命令で、ご馳走が八十健に振舞われました。
男たちにそれぞれ、八十膳夫(ヤソカシワデ=料理人)をあてがって、その膳夫に刀を持たせました。
そして、その膳夫に
「歌を聴いたら、一斉に切りかかれ」
と言いました。
忍坂の 大室屋に 人多に 来入り居り 人多に 入り居りとも みつみつし 久米の子が 頭椎い 石椎いもち 撃ちてし止まむ みつみつし 久米の子等が 頭椎い 石いもち 今撃たば宜らし
そう歌って、刀を抜いて
一気に土蜘蛛たちを殺してしまいました。
※歌の意味
忍坂の大室屋(オオムロヤ=大部屋)に人がたくさん集まっている。
どんだけたくさんの人が入って居ても、
久米の子が頭椎い(=太刀)や石椎い(=石斧)を持って撃ってしまうぞ。
久米の子が頭椎い(=太刀)や石椎い(=石斧)を持って、今撃ったらいい。
(現代語訳)
その後、登美毘古(トミビコ)を討とうとしたときに
歌った歌が――
みつみつし 久米の子等が 粟生には 臭韮一本 そねが本 そね芽繋ぎて 撃ちてし止まむ。
また歌われるには
みつみつし 久米の子等が 垣下に 植ゑし椒 口ひひく 吾は忘れじ 撃ちてし止まむ
また歌われるには
神風の 伊勢の海の 生石に 這ひもとほろふ 細螺の い這ひもとほり 撃ちてし止まむ
またエシキ、オトシキを撃ったときにイワレビコ命の軍勢は疲れてしまいました。
そこで歌われた歌は
楯並めて 伊那佐の山の 木の間よも い行きまもらひ 戦へば 吾はや飢ぬ 島つ鳥 鵜養が伴 今助けに来ね
※歌の意味
久米のものが作っている粟の畑に、
臭いニラが一本生えている
それを引っこ抜いたら、
芽も根もつながって抜ける。
久米部のものたちが、
垣根に植えた山椒の実は辛くて、
口がしびれるほど。
その痺れがなかなか取れないように、
私も、敵から受けた痛みは忘れない。
さぁ打ち倒そう!
伊勢の海の石に這う細螺(シタダミ=巻貝の一種)のように
敵の周りを這い回って、
打ち倒そう!
伊那佐の山の木の木の間を通って、
見守っていたら、おなかが空いた。
鵜養部(ウカイベ)たちは助けに来てくれ!
※以前にも書きましたが、古事記にはたくさんの歌が出てまいります。
この辺りは日本国らしい高い芸術性を感じます。
一説には、特にこのあたりの部分は、歌というより呪文というみかたもできます。
そもそもが、特に「古事記」のスタンスでは、この地上において、国津神のレベルでもひとりでなにかを達成できることはありません。スサノオさまやオオクニヌシさまでさえも、天津神の神力を頼らねば、事は成就いたしませんでした。
また、その部分でも丁寧に描かれているのが、高い精神性です。
自然と相対することにおいて、人間が必要なものは精神性と協調性だということを、全編にわたって隠しテーマとしております。
したがって、この部分では、戦いそのものよりも、その経緯を歌にたくすということと、同時に呪力というものを隠し持っていることを表現していると考えて良いでしょう。
こうして、イワレビコさまは大和の地を従えていくのでした。
つづく...
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