大和の巡礼(3)檜原神社 (ひばらじんじゃ)


寺院巡礼をしていた時代に、唯一、略毎年参拝させて頂いている神社がありました。

神宮です。

通称は「伊勢神宮」と申しますが、最初に参拝したのが24歳のとき。
それから30年以上、毎年必ず一度は参拝させて頂いております。
主に、12月の「おかげ参り」でしょうか??

ですので、この間に「遷宮」は2回経験しております。
ここ数年は年に数回になりました。

ご縁というのでしょうか、これだけ長い年月同じところに参拝していると、そのお社や土地に関係のある色々な方との繋がりができていきます。


倭姫命の伊勢神宮創建のための巡礼を知ったのも、ここ数年のことです。
この大和巡礼シリーズでもなんとなく「裏テーマ」になっている、知識と体験の話ですが、この伊勢神宮にも当てはまります。
ましてや、伊勢125社というのをきちんと理解し始めてのもここ数年、正しくは2014年の遷宮の少し前でしょうか??
先の遷宮までは、神宮の参拝は内宮と外宮だけで、あとはおかげ横町で出来たての赤福を頂き、伊勢うどんとてこね寿司、それに牛串を頬張って、あーおかげさまで... というのがわたくしのお伊勢参りでした。


しかし、この倭姫命さま。


この方の偉業を知ることにより、お伊勢参りは随分変わりました。
そしていまでは、いずれはこの近くに住みたいと思っております。

今回参拝させて頂いた四社のうち、もっとも以前からお訪ねしたかったのがこの檜原神社でした。
ですが、面白いもので、この大和巡礼を計画して一番最後に、檜原神社への参拝が決まりました。
(そのあたりは順路の関係なのですが...)





檜原神社(ひばらじんじゃ)
所在地  桜井市三輪字桧原(大神神社の摂社)
祭神 天照大神若御魂神・伊弉諾尊・伊弉册尊
社格 式内社「巻向坐若御魂神社」


実は大神神社の摂社ですから、歩いてもたかだか15分程度のところです。
そしてここには「山の辺の道」というルートがあり桜井駅と天理駅の約16kmを繋いでおり、その道すがらに「大神神社」、「檜原神社」そして、今回最後に伺う予定の「石上神宮」もこの 「山の辺の道」のルート上(というか、境内の中を通ります)にあります。そういう道なので、徒歩でのアプローチが普通なのでしょうが、このあとのコースと時間の関係もありクルマで移動しておりまいした故に、この檜原神社周辺の道路は、クルマで通るとしたら舗装路もすくなく、よく車両通行止めにならないのかなぁと思うぐらい、最悪の環境でした。ですが、お社のすぐ近くに駐車場があると聞いておりましたので、とにかくそこまでは行こうと...
神社参拝で結構険しく細い道は通りますが、基本的にここは徒歩用の道路でした...


鳥居です。

そういえば、この鳥居の形、正式にはなんというのかわかりませんが、一般的には「注連縄鳥居」と呼ぶこともあるそうです。
簡単にいうと注連縄を柱に結んでいるだけというシンプルなものです。古代の神社が如何にシンプルだったかを象徴しているようです。

ちなみに、鳥居も注連縄もそもそもは天照大御神さまに通じるものです。
いずれも「天の岩屋戸」が発祥なのです。

天照大御神が岩屋戸にお隠れになったときに、外へお出ししようと色々な催しを行いましたが、鳥を啼かせたその止まり木が鳥居の発祥であり、天照さまを岩戸の外に出したあとに二度と中に入れないように結界をはったのが注連縄です。
ようするにどちらも結界、人の世界と神の世界の区切りとして存在しているものですが...
なので、この鳥居(大神神社、狭井神社も同じ)は、初期神社建築の代表だという言い方もできると思います。


そしてこの三鳥居

この鳥居と三鳥居のある場所は一直線です。

しかし、ここで実に不思議なことに気がつきました。

檜原神社には本殿がありません。

実は、大神神社からの流れでしたので殆ど気にならなかったし、また、本家の三鳥居を見損ねてしまっていたので、ここに到着するまではまったく気が付かなかったというのが正しい言い方かもしれませんが...


ですので、ちょっと檜原神社についてここで書きたいと思います。



ここにはふたつの話があります。

①第10代祟神天皇の時代に、皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して天照大御神を宮中から大和の笠縫邑に遷し、その場所に堅固な石の神籬を造り祀ったといいます。

②第11代垂仁天皇の25年になって、天照大御神を豊鍬入姫命から離して倭姫命(やまとひめのみこと)に託すことになりました。倭姫命は天照大神を鎮座させる場所をお探しになられ、最終的に大御神の希望を入れて、伊勢国の度会宮にお遷しになりました。


さて、実は、このふたつの話は全く別の話なのです。

しかし、伊勢神宮は日本で最高ランクの神社、皇太宮でありますので、どうしても②を重視してしまい勝ちなのです。
筆者もそもそもアマテラスさまが長いこと氏神さまで、しかも冒頭に書きましたように大の「神宮フリーク」ですから...


少し解説いたしますと、①は、所謂、「神遷い(かみやらい)」です。

実は、日本書記にこういう記述があります。

「これより先に、天照大神・倭大国魂、二の神を天皇の大殿の内に並祭る。然うして其の神の勢いを畏りて、共に住みたまふに安からず。故、天照大神を以ては、豊鍬入姫命に託けまつりて、倭の笠縫邑に祭る。云々"」


この一文は二つの意味にとれます、


ひとつは、「この二神の霊威が強力で畏れ多いので、同じ宮殿で一緒に住むのは精神的に落ち着かない」。

もうひとつは「それぞれの神の霊威が強く、そのため二神が同床にあるのは畏れ多いことだ」

最初の文は「天皇」を、後の文は「神」を主語とした場合でそれぞれ意味が変わってきますが、いずれにしても宮中に置いておくと良いことがないとされたことは間違いありません。

このようにして、この二神をそれぞれ他へ遷すことになったのです。


一方で②は伊勢神宮の変遷について述べられています。

倭姫命は伊勢神宮建立の最高功労者です。

伊勢神宮が重要視されてきたのは、皇祖神を祀っている皇大神宮であるからで、その鎮座の地を求めたことがクローズアップされ「元伊勢」が脚光を浴びたことで、その最初の地である檜原神社が重要視されたのであります。


さて説明はこのくらいにして、檜原神社に戻ってみます。


三鳥居の話で止まってましたね。

鳥居があるのに、本殿も拝殿もないのは、こちらも三輪山をご神体とされているからなんですね。
つまり、ここは大神神社と同様に考えれば、屋根がないだけでこの鳥居の手前までが拝殿と考えられます。
そして、前述した、豊鍬入姫命をお祀りした「豊鍬入姫宮」があります。しかも構造的には拝殿の中に設置されているということになります。
神社というより寺院の本堂のようですね。たいへん斬新な造りです。

これだけみても、如何に豊鍬入姫命の功績は大きかったのかを推測することができます。それだけ、この崇神天皇の御代は色々なことがあったのでしょう。

ただ、筆者はさきほどの「神遷い」では前者を支持してしまいます。
崇神天皇はそれだけ多くを背負った天皇だったのだといえます。

その話はまたいずれ、本編のどこかで触れると思いますので、ここまでにします。



参拝を終えて振り返ると、鳥居越しに「二上山」がはっきりと見えました。

あ、これは多分レイラインなんでしょうね。
最近、そういうことが不思議となにも知識なしでわかるようになってきました。
以前、どこかに書きましたが、古代史を紐解いていくなかで幾何学は必須なんです。
筆者にはこれらを紐解いていくのに不足している単位が多いのですが、知識不足を体験や経験が補うこともしばしば出てくるようになりました。




先入観も多少はあったのかもしれませんが、檜原神社は大神神社のような力強さは感じられる、寧ろ、優しく、しなやかで、静かな空間でした。


摂社というよりも、大神神社が男性だとすると、こちらは女性。つまり、この二社は「対」ではないかと感じました。

予測ですが、崇神天皇は大物主さまに自身を重ねられた。
そして別の太陽神を宮中から外に出されたました。
なぜなら、ひとつの世界に太陽はふたつ必要ありません。
しかし、こちらは皇祖神さまです。
皇祖神を否定することは自分を否定することでしょう。
なので、豊鍬入姫命に大物主さまと対の場所に、女神のお社としてこの檜原神社をお祀りしたのでしょう。

こちらからみる三輪山も美しいです。
まるで霊峰富士が表も裏もどちらも美しいのと同じように...


ほんのひとときでしたが、大和というより伊勢にいた気がしました。


いや?? それとも、これが本当の大和なのでしょうか...



「大和の巡礼」はつづきます...






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