岩代ノ国巡礼(3) ~慧日寺から磐梯神社へ...


今回の目的地は、このあと、磐梯神社、そして磐椅神社(いわはしじんじゃ)です。
限られた時間なので、最初、左下り観音は見送ろうかと思ったのですが、レンタカーまで手配して余りにも勿体ないかと。
ですので、立ち寄った(場所も遠回りになりましたが...)のでしたが、結果的には色々なこの後の参拝行程を基本的に大きく変えるものになりました。

ここはちょっと移動時間も長いので、色々、頭の中でここまでを整理をしながら運転いたしました。

まず、首なし観音。
よくあるのは風雪に耐え忍んで首から上が落ちてしまうもの。
それから最初から首がないものは、ある意味で見せしめだったりします。
所謂、豪族、氏族の争いで根絶やしにしたものの象徴。

まぁ、前記はあまり「首なし観音」という呼び名ではありませんね。
しかし、後者だとすると、この会津地方で一体そんなことがあったのかという疑問も起こります。
もっと北からの関係で、さらに平安時代にであれば考えられますが...
それよりも新しいもののように見受けました。


え、平安時代??

この流れで飛び込んできたのが、ある東北を代表する高僧の名前です。

「あ、徳一…」

と、車中で声に出してしまいました。


そう、徳一僧正です。
このお方の名前、かれこれ四半世紀くらい忘れてました。
徳一の名前を知ったのはなにを隠そう、筆者の羅針盤でもある司馬遼先生著「街道をゆく~白河・会津のみち」に於いてです。
正直、それまで全くお名前も存在も存じ上げませんでした。

平安時代初期、あの最澄、空海と仏教に関して対等、もしくはそれ以上の議論を戦わせたなんていう高僧が、このみちのくにいらしたなんて、最初に読んだときは衝撃でしたが、その後、何回かこの会津にも交流しているのに、その際には全く思い出さなかったですし、考えも及ばなかったのでした。

ひとつ言い訳をさせて頂ければ、司馬遼のこの作品は、白河から会津入りをしていて、白河の部分が結構興味深いのと、会津に入ってからは、話の中心はやはり会津藩、所謂、幕末から明治への論説が多かったかと。

この書を読んで一番印象深かったのは、会津人は、口が重いのではなく、勤勉で真面目な故に、言葉にも思慮深いので、中々声に発しないという論点でした。
確かにその通りだと思います。勤勉が故に幕末に悲劇の舞台となりました。
こう言うと誤解を生じてしまうので補足いたしますが、別に他の地区(藩)が勤勉でなかったとは言ってません。その時代に生きていた訳ではないのでわかりませんし...
しかし、会津藩は突出していたと思います。
さらに言えば、会津は上から下までみな勤勉だったことでしょうか??

あ、この話、また長くなるのでやめます...
というか、そろそろ到着しそうなので。
※ついでながら、筆者はいつもこんなことを考えながらクルマを運転しています。特に巡礼の際は…
興味のおありにある方は、助手席は、いつもあいておりますので… 笑

そうしてレンタカーを走らせて「磐梯神社」に近付いて来たら、カーナビがお決まりの
「目的地周辺です。音声案内を終了します」
と。

カーナビでみると、まだちょっとありそうでしたが、駐車スペースがあったのでそこに停めて、それらしき建造物を見つけ、小さな案内所があったので聞いてみると、磐梯神社はこの前の道をもう少し上がったところだと言われました。

ここにクルマを止めても良いかどうか聞きましたら、勿論良い(こう即答されるところが東北人の暖かさ...)が、ここから結構登り坂で15分は係るし、磐梯神社にも駐車するところはあるので、その方が良いのではと...


と、ふと、え、ではこちらはなんでしょうかと咄嗟に質問しての回答が、
「恵日寺遺跡です」
え、恵日寺って、あ、もしかして...
「徳一僧正の??」
「あ、よくご存じですね...」

え、え、え... まさか、わたくしの巡礼の原点でもある「街道をゆく」の風景に、ここで出会えるなんて...

そうなのです。
磐梯神社ではなかったのですね、本当に訪ねるべきは...

しかし、この体験は…
まさしくわたくしの原点回帰のための交流だったのです。

ということで、拝観料を払って境内にはいりました。

余談ですが、基本、神社というのは拝観料を設けておりませんが、寺院は有名なところは殆ど拝観料が取られますね。
多分、神社は、初穂料とかお賽銭で賄えるのでしょうね??
かくいうわたくしも神宮クラスになると、崇敬会員ということもあり、祈祷を頂かなくても賽銭箱に万券をお納めさせて頂きますが、寺院は小銭ですませてしまいます。
というか、線香や蝋燭を献灯することが多いですね。
菩提寺は別ですが...


〇恵日寺散策

なんともうしますか、これは流れというか勢いというか...
うーん、司馬遼先生がなにを記されておられたのか、詳しくは覚えていませんが、なにか質素な寺院だったと。
いま、こちらでは色々発掘と復元が年月をかけて行われているようで、まずわたくしは復元された金堂と資料館へ。

というか、ここが拝観料が必要なところだそうで、あとは良いそうです。

復元された金堂です。

確か、司馬遼先生も「街道をゆく」では、こちらに参拝されていらっしゃったと記憶しておりますが、その際には、恵日寺(慧日寺)は小さな寺院だが、 慧日寺跡はとても広大で、発掘作業が進んでいる旨のことが記述されていたと思い出しました。
しかし、この再建された金堂と、同じ敷地内にある資料館もなかなかのものでしたが、やはり隣接している恵日寺は久々に戦慄が走った寺院でした。

寺院を参拝させて頂いたのは久しぶりだったからでしょうか??
そもそも、古寺巡礼をさせて頂いた時分にも、この会津には何度も来ています。
そして、当然「街道をゆく」は読んでおりましたのに、ここに辿りつくことはなかったというのもとても不思議なめぐり合わせです。

ここで発見した道標が、なんと…

「徳一廟」

もう、これは、一瞬倒れそうになりました。
感動というか、いや、この自分の状況を表す言葉をわたくしは知り得ませんでした。
「発狂」かもしれません。
そしてその場所はこの境内の一番奥。

もう、このときにはその後の予定なんて全く頭の中にはありませんでした。
緩やかな登りで数分ほどでしょうか、その御廟に辿り着きました。

徳一僧正のお墓と伝えられているところです。
このお堂の中にお墓があります。
普段は中は見られません。

司馬遼先生も述べられていますが、徳一が存在しなかったら、最澄も天台教学を極められなかったし、ということは、その後の鎌倉仏教も出現しなかっただろうと、わたくしもその論説は支持いたします。

徳一に関しては記述したいことがたくさんありますが、このブログの趣旨と幾分違います(もうこの段階でかなり趣味に走ってますが...)ので、この辺りに留めたいと思います。


ここにお参りさせていただいたとき、なにか初めてではない感覚がいたしました。
どうしてなんでしょうか??

初めて来させていただいたところなのに...

少し、あたりに腰かけて、しばし、徳一僧正から教えを頂こうと思いましたが、生憎、早朝にこちらでも降った雨で地べたは湿っており、また適当な石もありませんでしたので...
(ここは墓地ですから適当な大きさの石が墓石だなんてこともありますので...)

薬師堂、仁王門と、本来とは逆の順路で駐車場に戻って参りました。



〇磐梯神社
もう少しここに居たい気もしたのですが、しかし、本来の目的はこの先の磐梯神社でしたので、クルマで移動しました。
受付のかたが仰ったように、山道、それも結構な距離がありました。
とても慧日寺の駐車場からの徒歩では大変な道のりでした。

そして、到着!

なんというこの鄙びた感が満載!


水なんて出ている訳がありません...笑


鄙びてます!
素晴らしい!!
最高です。
大好きです。これぞ、田舎の神社です。

それにしてもどなたもいらっしゃいません。
ひとの気配が全くありません。
かと言ってなにも恐ろしくもありません。
境内というより公園、いや、空き地のような空間。

拝殿も、社務所もまったくひとの気配がありません。

由緒書きもみつけられませんでしたが、帰ってから調べた資料では、
「御祭神は 大山祇命、埴山姫命」
「平城天皇大同二年(八〇七)二月十三日の勧請
『明治神社誌料』には式内社・磐掎神社であると記されている」
「慧日寺(恵日寺)の守護神として奥宮に祀られたとあるが、
本来は磐梯山山頂に本社があり、当地に遥拝所が作られたのだろう」

ということが分かりました。

どうやら、本日のもうひとつの参拝予定先の「磐椅神社(いわはしじんじゃ)」に行けば、色々なことが分かるのかもしれません。


先を急ぎましょう!
と思いクルマを走りだすと、何やら前方に金色に光る場所が??

ややっ!!??
一体なんの光だろうと近づいてみると....

美しい、まさにこれぞ日本の秋の風景です。

それにしても、ここで徳一僧正とは...
まさしく原点回帰だったのですが...

さて、今回は、なんともうしますか、「不思議な巡り合わせ」シリーズになってしまいましたが、なんとも実はこの最後がさらにとても人智では計り知れないことになってしまいました。


それは次回に...

つづく...




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