神武東征の真実① ~なぜイワレヒコは敗れたのか??


そもそも、このブログで神武天皇のことを書き始めたのは8月の終わりころでした。

筆者が日本神話、とりわけ古事記を軸にこのように体系的に纏めたのは初めてで、なので、神武天皇にもこれだけきちんと勉強したこともありませんでした。正直、天照大御神さままで辺りは大変順調でした。

スサノオさまのところで少し、筆の進みが遅くなって参りました。

そして俄然、速度が落ちたのが、大国主命さまになってから。

しかし、その時点で分かり得なかったことが、この神武天皇の代、というか、「神代」から、「人代」に入って来て説明が着くようになっているのですね。ただし、これは古事記だけを読んでいては無理で、この時代になると色々な文書があるのですね。

そこで分かった大事なことは...

「どうして、古事記と日本書紀だけが信憑性があり、それ以外の当時の文書を偽書、もしくは作為的に過去に葬ってしまったのか」

勿論、それが歴史という名の勝者の理論なのですが。
本編紹介中のワンポイント解説でもちょっと書きましたが、この時代まで、歴史を遡って学習してきたものにとって、やはり、神武天皇はかなりおかしな存在です。

それは、10代のときに、既にそう思っていました。

でも時代が違いました。
現在のように、天皇や皇室に関して自由に発言することは許されませんでした。
あ、これは戦前の話ではありませんよ。
高度成長期よりも後のお話です。

いまの若い方々には想像も着かないと思います。

教育もおかしな方向に向かってました。
例えば国家斉唱、国旗掲揚をしないとか??
筆者は私立のしかもミッション系小学校でしたが、毎朝校庭で朝礼があり、週の頭の月曜日には国旗掲揚、国家斉唱。讃美歌をうたうのはそのあとでした。それは建学の精神「神と国とのために」からそうしていました。

なので、前述のような、偏向した小学校教育には幸いながら遭遇しませんでした。
ミッションだろうが、日本人の資質はきちんと受け継いでいる。いまでも、同級生のほとんどはそうだと思います。

但し、致し方なく、そうではない部分もありました。

例えば、歴史教育です。
これは教科書がそうであったので仕方なかったかもしれません。
平成になってもっとも評価が変わった歴史の武将ってどなただかごぞんじですか??

実は、織田信長です。

そして、信長に関わっているがためにその母体の評価が変わったので立位置も変わってきたのが当然、秀吉、家康、さらには足利義昭なんていうところですね。というか、かなり解釈が自由になってきました。
大河ドラマに出てくる信長もどんどんエスカレートしてますよね。なにもあそこまでやらなくてもと思います。

更に、源頼朝も、足利尊氏もかなり、平成になって自由に解釈されるようになりました。
ある意味ではとても良いことだとは思います。


話を戻します。

当時から、もし、「神武東征」を肯定するのであれば、わたくしは二つしかその理由を見つけられませんでした。

それは、
①大和には本来あるべく別の勢力があって、それを部外者が攻め滅ぼした。
②あるいは(①は日本人ですが)全くそうでない別の国からの戦略者だった。
このふたつしか考えられないのです。

ですが、それだと天孫降臨神話ってどういう位置づけになるのですか?? って??

とても全うな意見に対してそれを正統化するために正論だと言われつつあるのが、欠史八代をうまく利用した、崇神天皇初代説なんですね(あ、こんな言い方はしないかな)。
でも、こんなことは昭和時代には思っていても誰も口にはしませんでした。大体、壬申の乱だってドラマ化しようなんて誰も考えませんでしたので。

そういえば毎年12月には必ず伊勢おかげ参りに行っておりますが、実は、伊勢神宮に対する考え方ですらここ10年で随分変わってきています。

つまり、このブログにおいても、ここから先は歴史と神話の整合性をどこに見つけていくのか??
そして、一体、歴史が葬った真実はなんだったのか??
それはどういう理由なのか??

そういうことも色々俎上において考察していきたいと思っております。
ということで、暫くは初代神武天皇の部分を振り返ってポイントをまとめていきたいと思います。



〇なぜイワレヒコは敗れたのか

この部分、古事記の原文はこちらをお読みください。


初代 神武天皇 3.那賀須泥毘古との戦い

初代 神武天皇 4.五瀬命の最期


もうここでも随分解説文で書いてしまいましたが、纏めます。



①イワレヒコたちは陸におりてしまった。

日本は海洋国家と言われます。
その通りです。
正確に申し上げますと、稲作国家であり、そして海洋国家であるということです。
そのどちらもがあったからこそ、この国は発展を遂げられました。
そして海洋国家と稲作国家というのは密接につながっております。

そう、大事なことですが、海洋国家だったからこそ、この稲作が大陸から伝わったのです

その稲作が大陸から伝わったのは、紀元前4~5世紀だと言われています。

んん?? これ、とっても興味深くないでしょうか??

戦前には紀元節というお祝い(ある意味「建国記念の日」)で、神武天皇の即位は紀元前660年と言われていますが、勿論、この数字に科学的な根拠はまったくありません。
しかし、紀元前4~5世紀に、稲作は確実にこの国に伝わっているのです。
つまり、もし、イワレヒコという方が、その稲作伝来にも関わりがあると考えたら。
後々に稲作と神道が関係の深いものになっていく前兆はここにあったのかもしれません。
その点に関しては、今後、色々と考察してみることにしたいと思います。

しかし、ここでは、それよりも大事な点は

「海洋民族だったのに陸に降りた」

ことなのですね。

実はこれが、イワレヒコの敗因です。

イワレヒコの祖父神はホヲリさま、つまり山幸です。
山幸は山の神と海の神の両方の神力を継承しております。
その後継者がイワレヒコです。
ですので海洋技術に関してはお手のものだったのでしょう。

そしてこのことは、日本は稲作国家である以前に「海洋国家」であることを提言している箇所であることが分かります。

ここはこれから古事記を読んでいく中でもとても重要な箇所ですので、チェックしておくべき箇所であります。



②盾津の謎

盾を取って戦ったとあります。

本当でしょうか??

「矛盾」というい熟語があります。
残念ながら、この語源を知らない昭和人が筆者の周辺にも沢山いらしたので、書いておきます。

これは、『韓非子』の一篇「難」に基づく故事成語です。
あるところに、「どんな盾も突き通す矛」と「どんな矛も防ぐ盾」を売っていた楚の男が、客から「その矛でその盾を突いたらどうなるのか」と問われ、返答できなかったという話で、もし矛が盾を突き通すならば、「どんな矛も防ぐ盾」は誤り。
また、もし突き通せなければ「どんな盾も突き通す矛」は誤り。
したがって、どちらを肯定しても男の説明は辻褄が合わないということから「矛盾」という言葉が生まれました。

大変わかりやすいですね。

ですが、イワレヒコはそれ以上に「不思議」です。

盾を取って戦うなんてことはできません。
もうこれは「矛盾」以前です。

では、どういうことかというと、そもそも「戦い」なんか考えていなかったんですね。
日本人は基本的に戦いは好まないし、戦いには向いていないのです。

最初から戦うつもりはありませんでした。

しかし、ナガスネヒコにはそれが通じませんでした。

んん?? これもなにかに似てませんか??
神代、スサノオさまが和解を求めて高天原に上ってこられたとき、アマテラスさまは、スサノオが攻めてきたと勘違いされて応戦されましたよね。
この話は、わたくしは「神」に対するときには普通の言葉では通じなく、だからきちんと「祝詞」を奏上しなければならないという大事な神道のポイントだと述べました。

これも同じなんです。
イワレヒコさまは天津神の系統です。
しかし、いま相対しているのは国津神の系統の方々で、ここには意思の疎通はできなかったということでしょう。

勿論、話し合いだろうが、なんだろうが、地元の民にとっては、突然舟なんかで大人数が現れたら、おいおいなんだよ、なにしに来たんだよって守りに入るのは当然だと思います。




③陽に向かって


そして、もっとも有名なのが、このセリフなんですね。

「吾者爲日神之御子 向日而戰不良」
本編でも書きましたが、イツセのセリフです。
直訳すると、
「わたしは日の神の皇子なのに、日に向かって戦ってしまった。」
というところです。

でも、これはどうやら後付けの感じがします。
だって、筆者は敢えて文中では使いませんでしたが「神武東征」ですよ。
東に向かっているのですから、ずーっと太陽に向かって進行してきたのですね。
そうではなくて、これは、先ほどの「盾」に関係があると踏んでいます。

盾は宗教的儀式のこと、その象徴として「盾」と言っています。
もしかしたら盾を使って太陽を呼んでいたということも考えられます。
そしてそれまでの相手は、この神力が通用していたのでしょう。
いや、というよりも、前述の海と山の神力だけで通用したのだでしょう。

しかし、ここにはじめてそうではない相手が現れた。

そして敗れたときに、イツセは、はじめて自分たちには太陽の神力があることを思いだしたのではないでしょうか??

そう、彼らは本来、天孫の子孫たちなのです。

つまり、これは、イツセのイワレヒコに対する「遺言」だったのですね。

そうなのです。この一文が示している本当の理由はそこにあるのです。

実はイツセは長男ですから、そういう一族にとって大事なことをすべて継承する立場にあるのです。
しかし、自分の生命はここまでだった。

なので、ここで初めて、すべての天津神の子孫としての継承をここではじめて、後を継ぐ弟のイワレヒコに譲ったのですね。

その儀式を総称したのが、この言葉だったのです。



つづく...











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