皇大神宮(内宮)早朝参拝・後編 ~春のお伊勢参り⑥~


ところで、そもそもこのブログの発端は、神話(古事記)を小さなおこさまでも読めるように、更に、まだ自分で読めなくてもお母さまに読み聞かせて頂けるように(ここ、ちょっと大事なんです。母親がいいのです。そうでなければ、おばあさま...。でも母さまが良いのです。理由はいつか書きます。あ、完成したときは「はじめに」で必ず書きます)、そのためには、筆者自身がこれまでの中途半端な古事記の知識ではなく、きちんと体型的に整理しようと始めたことなのですが...

実は、このことはこの伊勢神宮と密接な関係があるのです。

この話をしたこともあります(リアルで...)ので、その話をお聞きくださった方は、この話を書くと、あ、あれだとお分かりになると思うのです。

ということもあって、実は、このブログには「参拝紀行」というカテゴリーがありますし、しかし一方で、今回のように、神宮にきちんと向き合った筆者なりの「伊勢参拝紀行」は初めてのことになりました。
「瀧原宮」「伊勢おかげ参り2017」はちょっと別の意味もあったので...


そんな訳で、簡単にいえば、神話をまとめるのに参拝紀行をしっかり記すことがとても大事なこと...

…に、不思議なことに、そのようになって来てしまったのですね。
そんな含みも持たせながら、且つ、しっかり両方を書いていこうと思います。

前回、前編を書きましたが、皇大神宮の早朝参拝という初体験の後編になります。

内宮の早朝参拝って、とても敷居が高いことだと勝手に思っておりましたが、いままでなんで実践しなかったのだろうかと今回の体験で思いました。

そうなんですね。

人間の一番弱く、いけないところです。

思っているのにやらないこと。

最近ようやくわかってきたのですが「思う」ということは、やりなさいって「指示」なのですね。
だから、その指示に従わなければ、次の道は開かないのです。
そんな、高尚な話ではなくても、滞ります。
行き詰ります。

しかし、人間は「やるやらない」より「できるできない」で物事を判断してしまうのです

最近、妙な言葉があります。

「出来ていません」

これは間違っています。

「出来ていません」
というのは、あたかも自分はやる気があるのだけど、色々他の要素があってできなかった。という言い訳にしか聞こえません。
そうではないのですね。

「やってません」

が正しいのですね。

やる気があろうがなかろうが、完成していなければ「やった」ことにはならないのです。
だから、「やってません」が正しいのです。
あ、これは、独り言です。誰かのことを言っているのではありません。
敢えて言えば、自分に向かって言ってます。

今回、やはりとてもよかった!
だから是非、また、機会を作って早朝参拝いたします。



〇四至神

ところで、前編でもいくつか書きましたが、伊勢神宮には勝手にパワースポットだと思われているところが結構あります。
また、色々間違って伝わっているところもあります。

そしてその逆で、本来とても大事なところなのに、知らないところもたくさんあります。
例えば、外宮にある、「三つ石」。
あれはなんの意味もありません。
ですが、たまに、妙な人たちや、普通のひとでも勘違いしていたり、はたまた、ボランティアガイド風なかたたちでも、紹介するのは区々だったりします。


しかし、ここを紹介するひとは滅多にいらっしゃいません。

それが、ここ、「四至神(みやのめぐりのかみ)」

実は、伊勢神宮のウェブサイトにもしっかりご紹介されています。
『内宮神域の守り神、四至とは神域の四方を意味します。社殿や御垣はなく、石畳の上に祀られます。近年、手をかざす方がいますが、神様をお祀りする場所ですので「二拝、二拍手、一拝」の作法でお参りください。』
と、内宮のところに表記があります。

一方で、豊受大神宮のところでは書きませんでしたが、外宮にもこの「四至神」は鎮座されておられます。
このご祭神の四至神は神域(宮域)の守護神です。
四至、すなわち神域の四方の境界を守護する神さまです。
神社としての四至神は、四至神に対して祭儀を奉る祭壇であります。
社殿を持たない神社であり、磐座(いわくら)祭祀の形態を残しております。

わたくしはこれまで、伊勢にご縁のある何人かの方々と内宮、外宮に参拝させて頂きましたが、この「四至神」に参拝しましょうと言われたことは余りありません。
伊勢の方は殆どされるようですが、わたくしたちにはあまり積極的ではないようです。
以前にも伊勢に生まれ育って80年近くという大先輩と同行させて頂いた際も、この神さまのことを教えて頂きましたが(そのときが最初に四至神を存じ上げたときでもありますが)、参拝のことはなにも言われませんでしたのでいたしませんでした。
ですから場所は知っておりましたが、果たして参拝して良いものか否かわかりませんでした。これは、外宮も一緒です。

でも、今回早朝参拝でしたので、かなり地元の方が多いのではないかとご拝察いたしましたが、殆どの方はここに参拝されてました。やはり伊勢の方々はとても大切にされている神さまなのだということがよくわかりました。

わたくしたちも二礼二拍一礼の参拝を...

そうしましたら大極から無限の光が溢れてまいりました。
さすがにアマテラスさまです...


〇風日祈宮

さて、本日は正規のルートを通りましたので、いよいよ、この次に風日祈宮に参拝しました。
最近は時間がないと、外宮の風宮は省略してしまう(前日もそうでした。こちらで参拝するからですが、これは悪しき習慣ですね。決して真似しないでください...)癖がついてしまっています。

風日祈宮のご由緒は定かではありませんが、804年(延暦23年)の『皇太神宮儀式帳』に記載のある「風神社」(ふうじんのやしろ)が初出だと思われます。風神社は現在の末社に相当しており、の摂社以下の扱いでした。

その後、吾妻鏡の中で1187年(文治3年)に源頼朝が、神宮に8頭の神馬を奉納したと記されておりますが、その時の宮社の風が風神社とされております。このとき、外宮権禰宜の度会光生が取り次いでいるので外宮の風社(現在の風宮)の可能性が高いです。

この風神社は末社相当でしたが、祭神が農耕に都合のよい「風雨」をもたらす神であることから風日祈祭が行なわれ、神嘗祭では懸税(かけちからー稲穂)が供えられるなど重視されていたようです。

しかし、やはりこのお社が世間に大きく知られ、またその格が上がるきっかけになりましたのは、やはり、1281年(弘安4年)の元寇です。このときに朝廷より二条為氏大納言が勅使として神宮に派遣され、風神社と風社で祈祷を行いました。その結果か否かは別として、日本に押し寄せた元軍は退却し日本にとっての国難は去り、これを神風による勝利として1293年(正応6年)に風神社と風社は別宮に昇格され、風日祈宮と風宮となりました。

そんな「ご由緒」も相俟って、江戸時代末期には欧米諸国が頻繁に日本を訪れるようになり、元寇の際に倣った訳ではないでしょうが、1863年(文久3年)5月に朝廷は風日祈宮と風宮で攘夷の祈願を15日間行なっております。


風とは本来「空気」のことです。

しかし、一方で強い風はときには力になり得ます。

風は自然現象の代表的なものの1つであり、伝承や信仰において神格化されることがあります。日本においては風神がその例ですが風神とは『古事記』では志那都比古神さま、つまり、こちら風日祈宮のご祭神なのであります。


早朝の風日祈宮は格別でした。

目を閉じて暫くしていると、なにかを囁いている声が聴こえるようです。

ずっとここで瞑想していたくなりました。
というか、こんなに心地良い場所だったのですね。
今までは気づかなかったのですが、内宮とはまた別の氣が流れておりました。



〇大山祇神社・子安神社

こちらも、意外に普段は飛ばしてしまうお宮です。

ですが、折角、早朝参拝という初体験、しかも貴重な体験をさせて頂いたのですから、是非とも、内宮のお社は全部参拝しましょうということになり、久しぶりにこちらにも。

大山祇神社は、神路山の入口の守護神である大山祇神をお祀りし、古くは山神社と呼ばれていました。

オオヤマツミさまは、神産みにおいて伊弉諾尊伊弉冉尊との間にお生まれになられ、その後、草と野の神である鹿屋野比売神(野椎神)との間に以下の四対八柱の神をお生みになっています。

一方、子安神社はこの大山祇神の娘神である木華咲耶姫神(このはなさくやひめのかみ)をお祀りし、地元の方からは、安産、子授けの神として崇敬されています。大山祇神社も子安神社も共に内宮の所管社です。

この二神が、どうして伊勢神宮の内宮にお祀りされているのかは、実はちょっと不思議です。

この二神は、ニニギさまが天孫降臨された後に大きく関与されている神さまです。

ごぞんじのように、オオヤマツミさまは、ニニギさまの「寿命」を決めてしまったかた。

そしてコノハナサクヤヒメさまはニニギさまの奥方であり、ホデリ、ホスセリ、ホヲリさまの母神さまです。

ある種、ニニギさまには大変ご縁のある神さまですが、ここは、皇大神宮、つまり、歴代天皇の崇敬社という位置づけでもあります。

コノハナサクヤヒメさまは、確かに初代天皇とされている神武天皇の曽祖母にあたります(あ、いま、書いていて気が付いたのですが、コノハナサクヤヒメさまは父方の曽祖母ですが、なんと、神武天皇の母方の曽祖母って、母はタマヨリビメさまですから、その父神はオオワタツミノカミさま、つまり、その父母神ってイザナキさま、イザナミさまなんですね...って、いまごろ?? 笑)。

なので、こちらにこの父娘神さまのお社があるということは、実に不思議なのですし、実はそういうこともあって、これまでも不謹慎ながら、結構スルーしてしまいました。

しかも、この場所、宇治橋を渡ってすぐの場所ですので...

皇大神宮は参拝の順番がきちんとしており、また、初めて参拝に来られたかたでも結構そのあたりはきちんと学習してこられるかたが多いのであまりそういうことはありませんが、普通の神社でしたら橋を渡ってそのまままっすぐ行ってしまってもなにも不思議ではありませんよね。

実は、この二柱がここに祀られているということは、伊勢神宮鎮座に関して、とても重要なヒントになっているのですね。

その話は、残念ながら、ここでは書けません(またかよー、そのパターン)。

というか、筆者もまだ資料不足なのです(というか、まだ発見してないのです、外堀は埋まっているのですが、決定的なものが...それを探してます。あ、必ず出てきます。というかありかは分かっているのです...)

最後、ちょっと歯切れが悪かったのですが、しかし、それは将来のお楽しみといいことで...

この部分は「参拝紀行」ではなく、日本の神さまと日本人のつながり、そして日本史における神社の意義とか、そんなような根幹にかかわることですので、きちんとまとめて書きますし、そこを納得できなければ、そもそも、神話を後世に継承するなんて大それたことはできませんので...



しかし、色々知恵を頂きます。


伊勢神宮は、参拝する度に、筆者自身に、どんな歴史解説書やガイドブックにも出ていない、まぁ、言ってみればそんなにひとさまには価値のないことなのだと思いますが...


沢山知恵を頂いた、素晴らしい早朝参拝をさせて頂きました。

参拝を終えるころにはすっかり太陽が昇り、宇治橋から見る五十鈴川が青く、美しく輝いておりました。

※「早朝参拝」は終わりますが、この伊勢旅記事は、もう暫く続きます...








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