平成29年初詣特集④ ~天神さま~

ところで、初詣ってなにを祈願されるのでしょうか?

筆者はよくここにも書きますように、参拝は報恩感謝で祈願はありません。また大願成就した際の御礼くらいでしょうか。

恵方参りも色々難しいのであまり....
あと厄年は初詣とは別に正式参拝いたします。とくに後厄は大事にしています。

初詣ではなく、息女の受験で大宰府天満宮に祈願したことはありますが、このときはたまたまその地域に出張で行っていたので、序でに...

絵馬なんかも奉納したことはありません。家族の厄年も前述のように氏神さまに正式参拝させて頂いておりますので...

自分はそうですが、初詣は新しい年のけじめでもあります。一年の計は元旦にありですから、合格祈願はとても多いのかと存じます。

天神信仰神社が3番めに多いというのも納得できますね。


天神信仰

天神信仰(てんじんしんこう)は、じつは、天神(雷神)に対する信仰のことなのです。

本来、「天神」とは国津神に対する天津神のことであり特定の神の名ではありませんでした。

ところが、なぜ、これが、菅原道真を「天神様」とした、畏怖・祈願の対象である神道の信仰のことに代わってしまったのでしょうか。

日本史に造詣の深いかたはご存知でしょうが、菅原道真の没後すぐに、天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)という神格で祀られたのですが、その直後の清涼殿落雷事件を契機に、道真の怨霊が北野の地に祀られていた火雷神と結び付けて考えられ火雷天神(からいてんじん)と呼ばるようになりました。

この火雷神は、実道権現(じつどうごんげん)などとも呼ばれ、『渡唐天神』『妙法天神経』『天神経』など仏教でもあつい崇敬をうけ、道真の神霊に対する信仰が天神信仰として広まったという訳なのです。

朝廷はここに北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとしました。道真が亡くなった太宰府にも墓所の地に安楽寺天満宮、のちの太宰府天満宮が建立され、また、949年には難波京の西北の鎮めとされた大将軍社前に一夜にして七本の松が生えたという話により、勅命により大阪天満宮(天満天神)が建立されたました。987年には「北野天満宮大神」の神号が下された。また、天満大自在天神、日本太政威徳天などとも呼ばれ、恐ろしい怨霊として恐れられたのでした。

〇発祥と全国各地の天神信仰

北野天満宮と太宰府天満宮はそれぞれ独立に創建されたものであり、どちらかがどちらかから勧請を受けたというものではありません。これはこういう特定の信仰には珍しいケースですが、前述のように、そもそもが天神さまというのは天津神全体の総称でしたので。

ですので、北野天満宮と太宰府天満宮では「総本社」「総本宮」という呼称は用いず、「天神信仰発祥の地」という言い方をしていまする。また、防府天満宮や與喜天満神社など最古の信仰発祥の地を称するところも複数ある。


北陸地方は天神信仰の盛んな地域で、福井県や富山県では、長男が誕生するとそれ以後の正月、床の間に天神像(木彫や掛軸)を飾り、福井の一部地域では1月25日にカレイを供える風習がある。これは幕末の頃に教育に熱心であった福井藩藩主松平春嶽が領民に天神画を飾るよう推奨し、それを富山の薬売りが広めたという説がある。また、富山藩や加賀藩(石川県)など前田氏の他の支配地域や隣接地域でも同様の風習があり、金沢市には正月に天神と複数の従者の木像を飾る風習が昭和30年代まで見られたが。これは、前田家は菅原氏の出を称していたためで、領内には天神社・天満宮が他地域に比べて大変多く見受けられます。前田家の家紋が天神の神紋と同じ梅鉢紋であるのも、先祖が菅原氏であるためとされています。


関東では板橋区徳丸というところに、創建995年の北野神社という社があり、ここが関東最古の天神さまと言われています。どうでも良いことですが、わたくしが新婚当初に住んでいたところの裏でした。6年くらいおりましたが、当時は全くそんなことを存じませんでした。その頃はまだ氏神さまに対する信仰心が薄かったのか、なにかあると参拝は実家の氏神さま(その場所から徒歩15分くらいでしたので)に行っておりましたので...

〇道真公と牛

菅原道真と牛との関係は深く

「道真の出生年は丑年である」

「大宰府への左遷時、牛が道真を泣いて見送った」

「道真は牛に乗り大宰府へ下った」

「道真には牛がよくなつき、道真もまた牛を愛育した」

「牛が刺客から道真を守った」

「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」

など牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在しています。これにより牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされ臥牛の像が決まって置かれています。

是非、参拝の際には牛を見つけましょう。

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