春の京都参拝③ (建勲神社)

前回、前々回と京都の神社参拝紀行を書かせていただき、改めて、京都のきわめて稀有な部分に触れさせていただきました。

うーん、京都の印象、かなり変わりました。

そしてそして、逆に大きな疑問が... なぜ、天皇家は1000年という長きにわたりこの地におられたのか??

勿論、それは色々な見方ができると思いますが、やはり、それはとても有難いことで、さらにいえば、神道を通じて、ひたすらに国の発展と国民の安泰を祈り願い続けてくださった。まさに、この事実こそが、日本の国民としての大きな誇りだと思います。


ところで...



京都で寺院巡りばっかりしていた頃から、必ず立ち寄っている神社があります。


前回も書きましたが、平安京は、その直前に都があった長岡京時代にあまりよいことが起こりませんでした。

そもそも、平安京に都が固定される前までは、平城京はそこそこ長かったものの、天皇が変わると遷都したり、乱や飢饉、天変地異が起こったりすると遷都したりと、意図も簡単に都を移しました。


でも、それは違う見方をすれば、天皇のお役目は神道の祭主として、国家の安泰を祈願することですから、よりよい場所を求めるというのはとても重要なことであったということなんですね。


そしてこの平安京こそは吉相の地だったわけです。


吉相の地というのは四神の配置があり、これは方位学なので、神道だけではなく、中国の考えであったり、また陰陽師などからも広く見識を集め出来た場所が平安京という集大成でした。日本国家の成立の過程において、このように色々な考え方英知を結集するという許容能力が高さは類い稀な民族性なのかもしれません。


この建勲神社のある場所は、平安京の中心から、玄武の地に位置しています。


船岡山という場所にあります。


要するに北の抑えになっているのです。



建勲神社

所在地 京都府京都市北区紫野北舟岡町49

主祭神 織田信長公

社格等 別格官幣社・別表神社

創建 明治3年(1870年)

例祭 7月1日



船岡の地は古来よりパワースポットだったと数々の謂れが残っています。


その場所に、織田信長の廟所と定められたのは豊臣秀吉でした。


さらに 明治天皇によって、別格官幣社になりました。

それがこの建勲神社です。

その経緯は、明治2年11月8日(1869年12月10日)、「日本が外国に侵略されなかったのは、天下統一をめざして日本を一つにまとめた信長のおかげ」として、戦国時代を天下統一、朝儀復興などを進めた織田信長を賛えるための健織田社(たけしおりたのやしろ)の創建が明治天皇により決定されました。

翌明治3年10月17日(1870年11月10日)、信長の子孫で天童藩知事・織田信敏の邸内(東京)と織田家旧領地の山形県天童市に建勲社が造営されました。明治8年(1875年)4月24日に別格官幣社に列格されました。


織田信長公のことを書き出したら、それはそれは、 また長くなってしまうので、多くは書きませんが、残念なことに信長公について語られている多くは、「信長公記」を筆頭に後々に記されたことばかりで、また、その後、その時々の学術研究においてその評価は変わっています。残念ながら、それが歴史というものです。

わたくしは信長の「経済性」は一際高く評価している一方で、よく言われる「破壊者性」はほとんどなかったと考えています。

そのあたりは、また機会があれば...


ところで、当社にこの時期に参拝に行くのは理由があります。


桜がきれいなのです。


なかでもここは....


桜を上から見られます。


まるで桜の雲に乗っているようです。


この桜の反対側が旧本殿のあった場所でそうで、そこには碑が建立されています。


もうひとつ素晴らしい桜があります。


それは拝殿の横にあります。


枝垂れ桜です。今年はちょっと早かったようです。


お、「敦盛」の碑もありました。
さすがに信長公をお祀りしているお社ですね...


平安京の守り、船岡山の地の神・玄武大神を祭る船岡妙見社も建立されています。



都が京都から東京に遷都したあとも、ここはしっかりと京都の北の守りになっているのです。


京都はやはり不思議なところです。

わたくしはあまり京都に「日本」を感じないのです。

ですが、この国の発展を祈り願い続けてきた場所。

そのためにいろいろな神仏や文化、風習が混在している場所。

その比は、東京なんてものではなく、1200年以上もそれが続いている場所。

それが京都なんだと思います。




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