伊豫豆比古命神社

例年のことですが、最近は週末色々なところに出張、親睦、交流、参拝をしておりますので、特に黄金週間と旧盆休みは余り動かないようにしています。


正確には、動けないが正しいでしょうか。


以前は、家の行事というのがあって、年越しは箱根、黄金週間は軽井沢、夏期休暇は何処か海外(ビーチ 笑)と決まっておりまして、これに倣っておりましたが、娘たちが大きくなったここ十数年、年越し箱根滞在だけは現在も続いておりますが、事業をはじめた時期とも重なっていて、あとのふたつの大型連休はほとんどが在京しております。


筆者の場合、黄金週間前後の出張が例年極めて多く、なので、余計この時期は在京している理由になっているのかもしれません。


どこへ行っても混みますし....


さて、そんな黄金週間の前週に訪問したのが...



愛媛県....



四国というのは記紀による国産みに於いては、淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしまー淡路島のこと)の次に、出来た島で、その名を伊予之二名島(いよのふたなのしま)と申します。


これが四国のことをいいます。


これは、胴体が1つで、顔が4つあるという意味ですが、その顔とは、愛比売(えひめ)が伊予国、飯依比古(いひよりひこ)が讃岐国、大宜都比売(おほげつひめ)が阿波国、建依別(たけよりわけ)が土佐国になりました。


これは古事記のおさらいですね。


えひめは四国の筆頭に数えられます。

そして、この愛比売は古事記にのみ登場し、「比」という字から女性であることが分かります。

同じように、建依別も古事記のみ登場し、名前からしてこちらは男神と推測され、愛比売とは対を為していると考えるのが良さそうです。


その愛媛県の中心、松山市にあるのが「伊豫豆比古命神社」です。



伊豫豆比古命神社(いよずひこのみことじんじゃ)

所在地 愛媛県松山市居相2-2-1

主祭神

 伊豫豆比古命

 伊豫豆比売命

 伊与主命

 愛比売命

社格等

 式内社

 府県社

 別表神社

創建 不詳(孝霊天皇の御代?)

本殿の様式 王子造

別名 椿神社

例祭 春季例大祭(旧暦1月8日)

秋季例大祭(10月6日)

主な神事 椿祭(旧暦の1月7日~9日)



この神社は一般には「椿神社」また地元では「お椿さん」と言われておりますが、正式名称は「伊豫豆比古命神社(いよずひこのみことじんじゃ)」といいます。


この祭神である、伊豫豆比古命(男神・いよずひこのみこと) 、伊豫豆比売命(女神・いよずひめのみこと)、伊与主命(男神・いよぬしのみこと)、愛比売命(女神・えひめのみこと)は、『先代旧事本紀』の「国造本紀」にその記述があり、伊与主命は初代の久米国造で、伊豫豆比古命と伊与主命は同一であるとする説と、伊豫豆比古命を祖神、伊与主命をその後継者とする説がそれぞれあります。


『先代旧事本紀』とは日本の史書であり、神道における神典で、別名『旧事紀』(くじき)、『旧事本紀』(くじほんぎ)ともいう、全10巻からなる書物で、天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されています。


この書は、序文に聖徳太子、蘇我馬子らが著したとありますが、のちに江戸時代の国学者である多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らによって偽書とされましたために、信憑性には欠けておりますが、いずれにしてもこの伊予、愛媛地域独自の神様、ようするに、中央とは別の大きな権力があったことを記されており、さらに諸説あることから、この権力交代があったのではないかと予測できます。


それが、このお社のご祭神に示されているのではないでしょうか?



また、愛媛県の県名は愛比売命から名づけられており、都道府県名で神名を使用しているのは愛媛のみであります。


創建は、平成24年(2012年)には御鎮座2300年祭が行われていることから逆算すると、孝霊天皇3年(紀元前288年)ということです。


これは、孝霊天皇9年の阿蘇神社と同じくらいです。



神代からこの愛媛を守り、地元の信仰の厚い古社であるといえます。


奏者社。


この神社では拝殿に参拝する前に、ここにお参りするのが習わしとされています。

なぜなら、このお社のご祭神、潮鳴栲綱翁神(しおなるたぐつなのおきなのかみ)は、伊豫豆比古命と伊豫豆比売命が舟山に船を寄せた時、厳頭に纜(ともづな)を繋ぎ、先住民の代表である潮鳴栲綱翁神が迎えられた古事により、万事取り次ぎを頂ける神とされていえうからです。




ところで、松山といえば、夏目漱石の「坊ちゃん」でも有名になった、道後温泉がありますが、道後温泉は、オオクニヌシさま、スクナビコナさまの「国造り」にもご縁のある温泉です。そういうこともあって、歴代の天皇も景行天皇にはじまり多くのかたが、この道後温泉を湯治場とされております。


そもそも、そのようなことから、出雲国とも強固な関係にあったのだと、また、歴代の天皇が訪問されているのはどんな関係にあったのか?




そんな古代ロマンを彷彿させるものが、この社に集約されているのではないでしょうか?









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