琉球八社巡礼.4 沖宮、波上宮

ひとにはキャパシティがあって、人間の記憶力っていうのはもの凄い容量なのだそうですが、問題は、その記憶したものを引き出す術、というかその経路が重要なんですね。

で、やはり加齢によってそういうものは落ちていくんですね。

簡単にいうと、一度記憶しておいたものでも、その後、使用頻度が少ないと、必要度が下がっていき、それが若い内は良いのですが、古い記憶はどこにしまったかが不明になり、さらにその経路すら辿れなくなってしまうんですね。

なので、物忘れをするようになったら、「あれあれ、あのその、なんだったっけ...」で終わらせないで、しっかり思い出す。
それは、経路を確保することなんですね。
経路を確認して、序にその道の周りに生い茂った草木を刈っておかないと、次のときに、また、中々辿り着けないのですね。

そういう意味では興味ってとっても大事で、興味のあるものは、必ず繋がっていく。というか、わたくしは必要だから繋がるのだし、興味が出てきたってことはこれからの自分に必要だから繋がる前兆なんですね。

11月は出雲は「神在月」ですね(10月を神無月といいますが、旧暦ですので...)。

で、なのかどうかわかりませんが、わたくしもここのところずっと、11月は変格の月なのですね。

なので、実は、ここまで色々なこと起こりました。

不思議です。筆者の場合、これは、実は2009年から始まっております。
おっと、話が飛躍しました。
沖縄のはなしのイントロでした。


昨年久高島に巡礼したときに、太陽神の話を聞きました。

太陽神、わたくしには勿論アマテラスさまです。

アポロンではありません。
でもアポロンも最初は太陽神ではありませんでした。
(あ、すぐ脱線します。この話は必要があったら詳しくいたします)

というか、わたくし取ってのアマテラスさまは太陽神でもありますが、同時に氏神さまですし、そして皇祖神です。

言い方を変えれば、わたくしに取ってだけでなく日本においても事実上最高の神さまです(最高ということばに着目しないでください)。

なので、この久高島の太陽神の話は忘れてました。

最近、このブログでもよく出てきますが、知識の上では勿論知っています。

日本神話は、北方系と南方系が混在しております。
そういう編纂成立過程の知識です。
しかし、それはただの知識です。

但し、その知識は時として必要なときに目覚めます。

その目覚めの作用というのと、冒頭から書いている記憶層への経路というのは同一なものなのでしょうか??


違うのです。
明らかに違うのです。
で、これは所謂、人間の能力を超越したものなのです。

そして、ひとは、時としてそういうものに出会います。
だから、ひとはキャパシティがあると思いつつも、それは違うところに持っているキャパシティを越えたものなのです。
今風にいうと、HDDとクラウドの違いです。
HDDはキャパシティで、クラウドはキャパシティ以外です。
あ、余計分からなくなりましたね。
この話のつづきはまたいずれ...


琉球八社の参拝紀行をつづけます。



④沖宮(おきぐう)

前回の天久宮で那覇に戻ってきました。
そうそう、天久宮鳥居からレンタカーを出すのは大変でした...
切り返しは一回でしたが、鳥居の幅ギリギリでした。
自分のクルマでないと、バックミラー幅しかわからないのが難点ですね。

傷付けられないし...(補償フルスペックなんで自分の保険を合わせれば大丈夫だとは聞いてますが...)

実は、ここから順番は「波上宮」の筈でした。クルマで10分程度のところです。
ところがカーナビが、大きな見落としをしました。時間外右折禁止でした。
交差点直前の「標識」で気づいたので、直進したら、情報が変わって、なぜか25分もかかる道を選んでいます。

そこで、こちらも予定変更。
この辺りは毎年来ているところなので、タクシーに乗っているだけでも道は分かります。
波上宮の次に参拝を予定していた沖宮はいま走っている道路に面した入口があります。
ここは(波上宮も)カーナビや地図を見なくてもいけますので(そうそう、わたくしひとりで運転しているときって、待ち合わせ時間以外のことはそんなに拘らないのですね。だから学生のとき、クルマで「略日本一周」をしてしまったんですね...)、予定変更しました。

沖宮は、奥武山公園の中にあります。
ちょっと前にさも那覇通みたいなことを書きましたが、実はこの公園内に「沖縄県護国神社」もあり、こちらにご縁があってここ数年は毎年参拝に伺っております。なので、よく存じ上げているのですね。

護国神社の大鳥居をくぐり、参拝入口のゲートで受付のかたに「沖宮の参拝です」と告げると、駐車券をくださいます。そしてハザートランプを点滅させ徐行するように言われます(毎度のことです...)。この日は台風の接近で、この運動公園場に来られる方も疎らでした。いつもはジョギングされているかたで溢れていますし、この時期は大きな催しを重なると、ブースや露店がたくさん出ていることもあります。

沖宮の鳥居。
立派な鳥居です。
この参拝で、はじめて日本を感じました。

但し、それは一時でした。
クルマから降りるとものすごい音。
風の音と、なにか幌が舞っているような音、さらに叩きつけられるような金属音。

台風接近ですからね...
丁度例大祭を数日後に控えられていたので、そのための大テントが拝殿の前に張ってあり、それが強風で煽られていたために、色々な音がどよめいていたのでしょう。


拝殿です。
こちらは琉球そのものです。

ご祭神が、天受久女龍宮王御神(てんじゅくめりゅうぐうおうおんかみ)とありますが、これは天照大御神さまのことだそうです。

龍宮王という表記。こちらでも出て参りました。

他に、天龍大御神(てんりゅうおおおんかみ)・天久臣乙女王御神(あめくしんおとめおうおんかみ)・熊野三神(伊弉册尊・速玉男尊・事解男尊)を祀っておられます、前記二つはよく存じ上げません。

龍神さまは、ここの前に参拝した天久宮に鎮座されてました。なるほど、もしかしたら、この間の行程は龍神さまにお守り、お導き頂いたのdしょうね。カーナビ不調でも、先に沖宮を参られよ。との、龍神さまのお指図だったに違いありません。そうすると理解できます。

わたくしは自分の身に起こることは必然かつ謙虚に受け止め、次のためのステップと知恵だと思っておりますから、このことだったのだろうと受け止めました。


沖宮の創建は源為朝とあります。

あれ、鎮西八郎は保元の乱のあと、大島に流刑されたのですよね??
「義経伝説」は日本中にありますが、実は為朝伝説というのも結構いくつか残っているのですよね。

ですが、正史に「源為朝公時代」と記されているものは他に例がありません。

ひとつはこの当時はまだ、日本国の歴史とは違う時代だったこと、さらに琉球王国は、1429年、第一尚氏王統の尚巴志王の三山統一によって成立したと見なされておりますので、その前の時代に関しては、日本からみれば丁度すっぽり空いているという言い方もできます。

したがって、為朝公の信憑性を云々言える立場でがありません。

鎮西八郎為朝は、それはそれは強い武将でした。日本史に残る「強い武将」の中でも五本の指に入るでしょう。特に背丈は七尺ほど(2m10cm)の大男で、気性は荒く、弓の名人で、彼の引いた強弓から放たれた矢は10人纏めて射抜いたという伝説もあります。

小さい頃から手が付けられない暴れ者だったので13歳で、父・源為義に勘当されて九州に追放されてしまいますが、元服すると自ら鎮西総追捕使(追捕使-ついぶしは日本の律令制下の令外官で、警察・軍事的官職。初めは臨時の官職であったが、後に諸国に常設されるようになった。但し為朝は正式に任命されたものではない)と称して、暴れまわりました。

但し、保元の乱のときには智略にも優れ、軍議の際には夜襲を提案。天皇方で最も武の立つ実兄源義朝を討ち落としてしまえば、平清盛率いる平氏は問題外と提案しましたが、左大臣・藤原頼長に、これは天皇と上皇の争いで武士同士の戦いではないのでそんな野蛮なことはできないと却下されてしまいました。一方敵方の天皇方は、この為朝の存在を重視してまともに相手にしては敵わないという義朝の意見に平清盛が同調し逆に夜襲をかけたことが功を奏して、保元の乱は後白河天皇方の勝利となりました。

あ、また横道に逸れました。

しかし、今後、沖縄史に触れる際に、為朝公はとても重要な存在だと分かりましたし、個人的にもかなり興味を持ちました。


境内には色々摂社もありましたが、いよいよ風もかなり強まり(というか前述した各種轟音が恐ろしく…)、拝殿裏の住吉神社に参拝して沖宮を後にしました。

沖宮
所在地 沖縄県那覇市奥武山町44
主祭神 天受久女龍宮王御神、天龍大御神、天久臣乙女王御神、熊野三神
社格等 旧無格社
札所等 琉球八社





⑤波上宮(なみのうえぐう)

沖宮から波上宮は、今回、琉球八社は巡礼している中で、もっとも近い移動時間(距離)だと思います。筆者が宿泊していた国際通り入口(県庁付近)からでも徒歩で20分係らない距離ですので、那覇観光バスツアー(特に中韓向け観光客)の定番スポットでもあります。従って、今回は午前中を避けました。午前中から昼過ぎまではツアー観光客が多いとも聞いておりましたので、駐車場に止めるのも大変だと...

さて、波上宮は琉球一之宮であり、琉球八社の中では中心と言っても良いでしょう。

そもそも、筆者がこの沖縄県の神社というものに興味を持った最初は、この波上宮でした。

いや、もうすこし正確に申しますと、現在この波上宮内にある「長寿宮」、またの名を「浮島神社」だったからです。
それはどういうことかと申しますと...

琉球王国は1429年に、尚 巴志王(しょう はしおう)によって統一され首里城を王都といたしました。しかしその後王位についたかたは何れも短命でした。第五代尚 泰久王(しょう たいきゅうおう)は、その当時まだ島だった那覇と本島を繋ぐために、長虹堤(ちょうこうてい)という全長約1キロメートルの堤防と橋からなる道路を建設しましたが、これが、一向に進まないため、なんと天照大御神の御霊を日本本土から招き、二夜三昼祈願し、神助により工事を遮っていた荒波が収まり、無事に完成したそうです。その御礼に建立されたのが長寿宮(ちょうじゅぐう)という琉球で最初の神社で、これがその後の琉球八社の創建に繋がりました

ちなみにこの長寿宮は現在、波上宮(なみのうえぐう)内にある浮島神社です。

つまり大事なことは、琉球王国が政治的にいつ日本国になったということではなく、日本の皇祖神であり最高神であるアマテラスさまを頼り、そのご神威に頼み、大願成就の折には琉球国最初の神道式の神社を普請したという事実です。

なので、こちらに参拝させて頂こうと思ったのが、琉球八社巡礼に発展したのでした。


ところが...

この日の台風と、これ以降の予定。

10時にクルマを借りて、既に、こちらに到着したときには15時を回っておりました。この日は土曜日で、これから那覇市は夕方の大渋滞になります。レンタカーの返却は17時。それは多少遅れたとしても、夜の18時から会食の予定が入っておりますので、今後を考えると各社の参拝は短時間で...

というような焦りから、前述の話を全く失念しておりました。

やはり知識だけではダメなんですね...


ところが、ここでわたくしはもっと不思議な事実を発見しました。
現在の波上宮に、アマテラスさまの気配を全く感じなかったのです。

あ、誤解のないように申し上げますが、神力とか霊力とかということを感じなかったのではなく、表記的にということです。

つまり、もし現在でも「長寿宮」を大事にしていたのなら、例えば「由緒書き」にでも、どこにでも、天照大御神の表記は見つけられた筈なのです。というか、それが、日本の神社というものです。日本の神社であるのなら、例えば、本社に合祀していたり、摂社や末社に、アマテラスさまが鎮座されていらしたら、略、どちらにも表記があります。

それが、日本の社というものです。

ところがこのお社にはありませんでした。

※また、帰ってから読んだ波上宮関連の書物にも長寿宮(「浮島神社」)の扱いは殆どなく、それよりもわたくしのように琉球史を学ばれてこられた方が不思議に思い那覇中を探索されたという興味深いブログを発見しました。

そうなのですね。
やはり知識より、体験なのです。

わたくしはものすごく大きな仮説をここで立てることになってしまいました。
そしてその仮説の成立は、ここ数年沖縄にこの時期に交流させて頂き得た「体験」だけで作り上げた、とてつもない「仮説」で、実はそれが、わたくしの意としている「日本神話の改定」の方に大きく関わってきているのですね。

うーん、この琉球八社巡礼はそういうことだったのですね。


波上宮
所在地 沖縄県那覇市若狭一丁目25番11号
主祭神 伊弉冊尊、速玉男尊、事解男尊
社格等 旧官幣小社、別表神社
創建 不詳
本殿の様式 流造
別名 なんみんさん
札所等 琉球八社
例祭 5月17日


ということで、これで5社の参拝をさせて頂きました。

さて、残り3社の参拝は、まさに時間との戦いになって参りました...


つづく...




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