岩代ノ国巡礼(4) ~磐椅神社、その他...

以前にも少しだけ書いたことがありますが、筆者の歴史観というのは、小学校時代に初めて読んだ、漫画「日本の歴史」が最初でした。

わたくしの少年時代は、「偉人伝」の最盛期でしたので、幼稚園の頃から、「リンカーン」、「野口英世」、「エジソン」、「二宮金次郎」、「シュバイツァー」というところは読んでいて(というか、父は徹底していたので、そういうのは全集で揃えてドン!とこども部屋に置かれてしまうのですね...。その最たるものが「ブリタニカ百科事典」でした... 笑。いまでも実家のわたくしの書斎にある筈です)、その中に「聖徳太子」とか「豊臣秀吉」、「徳川家康」などもラインナップ(確か「織田信長」はなかった筈なんです... 時代ですね...)されていたので、大体はつまみ食い程度に読んでましたが、明確に覚えているのは家康が竹千代時代に、河原でこども同士の石合戦があって、人数の少ない方が勝つことを竹千代が予想し、その通りになったときに、「数が多いと油断がある。少ない方は必死に戦う、だから少ない方が勝つ!」ってジイ(多分、鳥居元忠??)に解説するのですね。
その下りだけは覚えていますが、後はそんなに色々記憶はありません(エジソンが鶏の卵を暖めていたとか、リンカーンが街頭の灯りで勉強したとか、お決まりの箇所は別として...)。

しかし、偉人伝は残念ながら、歴史という全体像を見渡すには余り役立たなかったようです。

いまのこどもたちは偉人伝なんて読まないのでしょうかねぇ??

その「日本の歴史」は、なぜか第5巻が最初で、それは「鎌倉幕府の成立」でした。

そしてここからわたくしの場合は、歴史を遡っていく路線と、下っていく路線の両方向の学習を始めたのですね。

だから偏屈なのかもしれません。ちなみに父がこのシリーズを全集でどん!と揃えてくれなかったのは、単に「漫画」だったからなのです。変わりに「世界文学全集」(「戦争と平和」、「怒りの葡萄」、「大地」、「嵐が丘」、「狭き門」、「若きウェルテルの悩み」、「知と愛」、「罪と罰」、「ジャン・クリストフ」など全101巻でした。これが文学少年の誕生です... 笑)を買ってきて、ドン!と置いていきました。漫画を読むくらいなら世界の名作を読めと言わんばかりに... 無論どちらも完読しました。あ、だから学校の勉強をする時間がなかったのですね...

さて、歴史を現代まで下っていった方は教科書を筆頭にそのまま自然に取りこまれましたが、一方で歴史を遡っていった方は幾つもの難所があり、そして多くの課題、問題点を提示されました。

そして分かったことが、「歴史は勝者の理屈」ということでした。
これは、こういう学習をしたから明確に分かっていったことなんです。
だって、辻褄があわないことの連続でしたから。
もし、一本、すじが通っているものならば、下ろうが遡ろうが、違和感はなにもない筈なのですから。

そしてその中でも大きな難関は、この東北地方の歴史でした。

東北地方、というか東日本での核はやはり「源氏」です。
ですので、源氏がその影響力を発揮するまでは、殆ど問題なく解明できております。

しかし、それ以前は、かなり錯綜しております。
奥州藤原氏という大きな勢力も、源氏という「接合点」を持ってすれば、その殆どは解明できます。

例えば、坂上田村麻呂という人物に関しては、或いは、その敵役であるアテルイというひとは。
いまの史実が正しいかは全く疑問です。
その前に、平将門もかなり難しい存在です。
このかたは神としても崇められております。ある意味で江戸の守り神でもあります。

不思議です。

それもこれも、すべて、この東北地方の史実を解明が鍵を握っています。

多分、多くが書き換えられてきています。
ただ、残念ながら、わたくしの役割として、ある一面で、その疑問点を提起することはできますが、解明はできません。
未来に、この失われたパースを見つけ修復してくださる方が必ず出てくることに期待しています。

さて、そんな東北会津の参拝も今回の最終地を目指しておりました。


〇磐椅神社(いわはしじんじゃ)

磐梯神社に於いて、この磐椅神社に行きなさいと、ロープレゲームの様に示されました(宝物はなにも貰えませんでしたが…笑)。

そこで例によってカーナビ頼りに。
到着した!
と思いましたら、そこはかなり大きな立派な神社で、観光バスが何台か到着し、大勢の参拝(というか観光)客で溢れかえっておりました。

どうやらここは違う神社のようでしたが、道中で探した会津観光案内と、個人の神社サイトを拝読すると、磐椅神社に入っていく道は大変狭く、手前の「土津神社」の駐車場に止めていくことを推奨されていました。確かに、磐椅神社に行くための道がありましたが、どう考えてもクルマで入れそうな感じがいたしません(軽自動車だったら入れそうでしたが、この日はカローラフィルダーを借りていたので、ちょっと厳しいかも)。ですので、先ほどの神社の駐車場にクルマを止めさせて頂きました。

さて、その道を入ろうろすると、いきなり...

あ、白雪姫ではあるまいにあんまり自然の動物たちとはつきあいがありませんので、熊の生態はよく存じ上げませんが、この時期、まだ冬眠はしていないのでしょうか??
よく、冬眠明けの熊さんはお腹を透かしているので、襲ったりするのかもしれませんが、でも、冬眠前の熊さんもお腹が空っぽだと深い眠りには入れないでしょうから、もし、餌を探しに来た熊さんに出会ったらヤバいのかなぁとか。
いや、そもそも熊さんってどんな大きななのでしょうか??
四足だけど遅いかかってくるときは直立歩行するのでしょうか??
そういえば、最近、イノシシが村を襲ったって聞きましたが、このあたりにはイノシシは出ないのかなぁとか??
あ、昔、もし熊に出会ったら死んだふりをすれば良いというのは間違いで、地べたに寝たら小突かれるから、絶対起きていて動くものには反応するから息を殺してそのまま、通り過ごすのを待っているのが良いとか??
もし、襲ってきたら、熊さんは前足が短いのでお腹にへばりついてしまえば、手(前足)で頭や身体を殴られることはないと聞いたけど、その後はどうしたらいいんだろうかとか... ああ、その話ちゃんと聞いておけばよかったのに...

時間も遅く、そろそろかなり周辺も暗くなってきましたし、そんなことを考えながらかれこれ5分以上歩きましたが、一向に神社に辿りつけません。

このまま辿り着いたとしても帰りはもっと暗いし、でも神社に参拝に行くのだからそんな災難には合わないだろうと思いきや、こんなときに「とおりゃんせ」の歌なんか急に思い出し、「行きは良い良い、帰りは怖い」って、あれはたしか「天神様の細道」じゃないかって??
あ、神社だぁ、なんでこんなときにこんな童謡を思い出すなんてよっぽど動揺しているんだろうなって、自分に突っ込んでなにやってんだろう。

という様々な思いを経た結果、残念ながら、周囲の暗さに断念することにしました。

うーん、すべての謎が、磐椅神社に参拝すれば解明できると思ったのですが、あの熊の看板をみたが故に...

でもこれで良しとしなければ、すべては必然、あるがままになせる業というものですから...


〇土津神社(はにつじんじゃ)
さて、磐椅神社を断念し、本来ならこのまま会津市内へ帰るところでありますが、駐車場をお借りしたお社になにもご挨拶をしないで立ち去るなんて無作法な振舞いはできません。どんな神さまが祀られているのかは存じませんが、一宿一飯ならぬ、一停車ですがその感謝の参拝をさせて頂こうと...

おや、なんとこちらのご祭神は、保科正之です。

あ、そうでした。会津松平家の開祖であるこのお方は大変数奇な運命を辿られました。
ちょっとお話させていただくと、分かりやすく申し上げれば、徳川三代将軍家光公の弟君。いや、というか秀忠の庶子、要するに、家康大権現のお孫さまでいらっしゃいます。
徳川家も天下を治め、幕府を開き武士政権の筆頭に立ったといいながらも三代までは波乱万丈でしたね。
色々、後世の話ネタになること花盛りです。

まずもって、この三代の跡目に関しては、色々なところで勢力争いが演じられましたが、あの橋田寿賀子先生まで題材にしてしまうこの時代、なんといっても秀忠の継妻お江と、家光の養母である斎藤福、通称春日局の争いが一番でしょう。
秀忠は父家康に負けるとも劣らないほどの子だくさんでしたが、中でも群を抜いていたのが三男徳川忠長でした。
それもその筈、母は江と言って織田信長の妹、市の三女、姉は茶々(淀)、名前も父の忠と大叔父の長を頂いており、幼い頃から聡明で、類稀な有智高才な子だったと伝えられております。
おまけに秀忠公は、江に対しては大の恐妻家。
そこで、春日局が既に駿府で隠居生活をしていた大御所家康公に訴え出て、大御所さまは、秀忠と妻子たちの前で上座に家光を呼び、「長幼の序」を説き、後継指名をしたと言われています。
しかし、よく考えますと、家光の幼名は竹千代でこれは大御所と同じ(ちなみに秀忠も竹千代ですが、これは兄信康が自刃したために長丸から改名しました。忠長は国千代です)であり、また、家康は信長に在らぬ疑惑をかけられて自害したこの長男信康の才覚を高く評価していたといわれていますから、春日局が出るまでもなく、家光の将軍は間違いなかったでしょう。

保科正之は同じ将軍の子でしたが、そんな華々しい生活ではなく、生まれてまもなく養母の実家である穴山家を頼り、その遠縁にあたる保科正光の養子になりましたが、前述の兄たちの争いに巻き込まれないようにと、当初は秀忠の子であることも伏せられたと言われています。
そして、養父保科正光を継いで、信濃国高遠藩主となりましたが、その後、色々ありまして、兄徳川家光にはとても寵愛され(というか、忠長とのいさかいの反動も大いにあったと思います)その後加増され、会津藩23万石の大大名になりました。

1万石って、現代に換算するとどのくらい… というのは、色々な計算方法があるので一概には言えませんが、石高を基準に考えれば、おおよそ3億5000万円くらいです。なので、23万石というのは、年俸80億円ということです。
すごいと思うかどうかは人それぞれですが、これは、個人資産ではなく、企業で言えば年商。一方、1石というのは、基本人間一人の一年間の米の消費量を基準にしているので、1万石は10000人、23万石はその23倍ですから、まぁ、企業ではないので、社員23万人の会社ではありませんが、そう考えると、かなり厳しい経営ですよね。
但し、ここには貨幣価値って関数は想定していない数字で、それを加味してよく一般的に言われるのが、1万石で10億円です。

株式会社会津藩は、年商、230億という企業になります。
あ、こんなこと考えていたら、俄然気になったのが会津若松市の決算規模なんですが、すぐ調べました…笑
大体500億円くらいなんですね。

会津藩と会津若松市が全く同じではないので、比べようがありませんが、そんな大きな所帯を、この保科正之は任された訳なのです。

こんな雑談よりも、大事な話は、この会津藩を創設したことに保科正之の功績があるのです。会津藩というと幕末ばかりが目につきやすいのですが、それはこの質実剛健、質素倹約な会津藩を創設されたこの保科正之の精神が脈々と受け継がれていったからなのですね。

前回、「街道をゆく」の司馬遼先生の言葉を引用させて頂いた通り、会津藩が勤勉で真面目だということ、その根本を創り上げたのが保科正之なんですね。


立派な鳥居です。

ご由緒
卜部神道、吉田神道ですね。反本地垂迹説なんでしたよね。
よく分からない領域ですが、このあたりも個人的には学ばないと。やはり勤勉なのですね。

拝殿。
今回色々な繋がりを得られましたことをここで感謝させていただきました。

と、ふとここでひらめきが...

保科正之って(当記事では前述しましたが)高遠でしたよね。

あ、高遠なんです、大事なことは。

そうだったんです。あのコヒガン桜で有名な高遠です。
わたくしが初めて身近でみた生オオタカも。

高遠だったんだ...

さらに高遠はわたくし事で大事なことなのですが、その先は、お諏訪さまです。
なるほど、こっちに繋がっていたのですね。
漸く繋がりました。
しかし、これも、行ってみなければわかりません。

今回は、結果、義母の代参だった伊佐須美神社恵日寺で徳一僧正にお会いすることによる原点回帰、で、次はなんだろうというところできた当社にての「高遠」、「諏訪」。

いま、実行している繋がりともうひとつの道、こっちが側道なのでしょうか、どっちだろう...

でも行ってみましょう。

で、そのタイミングでまた...

これ、大和神社と同じパターン(前回は本物の蛙でしたが、多分、冬眠したのでしょう)... 笑

ということで今回は帰ります。
磐椅神社は残念でしたが、この会津、いや岩代の参拝は次への大事な通過点でしたので...
さすがに四道将軍、そして崇神天皇、ひいては三輪の神さまのお導きだったのでしょう。

神社内の美しい紅葉。

思えばこれに引かれて降りたのでしたね...


いよいよ今週末は伊勢へ、おかげ参りです。



0コメント

  • 1000 / 1000