五代 孝昭天皇 (みまつひこかえしねのすめらみこと)

先週、青森県は五所川原の「立佞武多」祭に行ってまいりました。

青森には三大ねぶた祭があり、青森市、弘前市と、ここ五所川原市ですが、正直、この五所川原の「立佞武多」を拝見いたしますと、他のふたつは影を潜めてしまうと思います。

その名の通り、「立ち」ねぷたであり、高さは23メートル。
この勇壮かつ絢爛なねぷたは百聞は一見に如かずであります。
筆者は縁あって、こちらに三年連続で来させていただいておりますが、ここは青森でも「津軽」と言われている地域で、この五所川原という市も人口は6万人で、この立佞武多以外にはあまり観光になるものもなく、ホテルも市内に2軒しかありませんので、ここに宿泊するのは桜や紅葉の京都に泊まるよりも狭き門です。
感謝です。

ところで、前述の「青森のねぶた祭り」、「秋田の竿灯祭り」、「仙台の七夕祭り」を俗に東北三大祭りと呼んでいる(諸説あります)のですが、いわゆるこれは「夏祭り」です。

でも、夏祭りってなんなのでしょうね??
どうも、あまり日本ぽくありませんね。

というのも、お祭りとは基本、神事であり、その対象の神は氏神さまです。
そして春祭りは、五穀豊穣の祈願であり、秋祭りは、収穫感謝の報恩です。
すべて、この国は稲作が基礎となり、その上になりたっております。
なので、夏祭りはちょっとその辺りからは逸脱しております。

また、夏祭りの特徴は「踊り」です。

日本の踊りはどこから来ているかというと、これはそんなに歴史が古いものではありません。

殆どが発祥は「盆踊り」です。
つまり、夏祭りとは、神事ではなく「仏事」であります。
これは、まさしくこの国における「神仏習合」の名残りでもあるのです。

東北(無論東北だけではありませんが…)に夏祭りが多いのは、大いに理由があります。
それこそ、民族の成り立ちです。

東北地方に関しては、日本国の成り立ちにおいて、その真実を導く種が化石状態になっていると言ってよいほど、面白い場所です。

そして解明されていないこともたくさんあります。

丁度、青森へ行く機会がありましたので、そんなことをまた考え出してしまいました。

この話題は、また、いずれ...


〇孝昭天皇


(古事記原文)
御眞津日子訶惠志泥命、坐葛城掖上宮、治天下也。
此天皇、娶尾張連之祖奧津余曾之妹・名余曾多本毘賣命、
生御子、天押帶日子命、次大倭帶日子國押人命。二柱。
故、弟帶日子國忍人命者、治天下也。
兄天押帶日子命者、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、
壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、
都怒山臣、伊勢飯高君、壹師君、近淡海國造之祖也。
天皇御年、玖拾參歲、御陵在掖上博多山上也。


(現代語訳)
御真津日子訶恵志泥命(ミマツヒコカエシネノミコト=孝昭天皇)は葛城(カズラギ)の掖上宮(ワキガミノミヤ)で天下を治めました。
孝昭天皇は尾張連の祖先である奥津余曽(オキツヨソ)の妹である余曽多本毘売命(ヨソタホビメノミコト)を娶って産んだ子供が天押帯日子命(アメオシタラシヒコノミコト)
大倭帯日子国押人命(オホヤマトタラシヒコクニオシヒトノミコト)のニ柱です。

弟の帯日子国忍人命(タラシヒコクニオシヒトノミコト=考安天皇)が天下を治めました。兄の天押帯日子命(アメオシタラシヒコノミコト)は
春日臣(カスガノオミ)
大宅臣(オホヤケノオミ)
粟田臣(アハタノオミ)
小野臣(ヲノノオミ)
柿本臣(カキノモトノオミ)

壱比韋臣(イチヒヰノオミ)
大坂臣(オホサカノオミ)
阿那臣(アナノオミ)
多紀臣(タキノオミ)
羽栗臣(ハグリノオミ)
知多臣(チタノオミ)
牟耶臣(ムザノオミ)
都怒山臣(ツノヤマノオミ)
伊勢の飯高君(イヒタカノキミ)
壱師君(イチシノキミ)
近淡海国造(チカツアフミノクニノミヤツコ)
の祖先です。
孝昭天皇は93歳で亡くなりました。
お墓は掖上の博多山(ハカタヤマ)のあたりにあります。

古事記ではこれだけの記述です。

そこで、今回も日本書紀をみてみます。以下、現代語訳のみです。

觀松彦香殖稻天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト=孝昭天皇)は大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト=懿徳天皇)の嫡男です。母は皇后の天豊津媛命(アマトヨツヒメノミコト)は息石耳命(オキソミミノミコト=安寧天皇の子で懿徳天皇の兄)の娘です。孝昭天皇は大日本彦耜友天皇即位の22年春2月12日に皇太子となりました。
懿徳天皇34年秋9月に大日本彦耜友天皇が崩御しました。翌年の冬10月13日に大日本彦耜友天皇を畝傍山南纎沙谿上陵(ウネビヤマミナミノマナゴノタニノカミノミササギ)に葬りました。
孝昭天皇即位元年1月9日。孝昭天皇は皇位につきました。
夏4月5日皇后(懿徳天皇の皇后の天豊津媛命のこと)を尊び、皇太后としました。
秋7月に都を掖上(ワキノカミ=奈良県御所市池之内)に移しました。これを池心宮(イケゴコロノミヤ)といいます。この年が太歲丙寅です。
孝昭天皇即位29年の春1月3日に世襲足媛(ヨソタラシヒメ)を立てて皇后としました。
ある書によると、磯城縣主葉江(シキノアガタヌシハエ)の娘の渟名城津媛(ヌナキツヒメ)です。
ある書によると、倭国の豊秋狹太媛(トヨアキサダヒメ)の娘の大井媛(オオイヒメ)です。
后は天足彦国押人命(アメタラシヒコクニオシヒトノミコト)と日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシヒクコニオシヒトノスメラミコト=孝安天皇)を生みました。
即位68年の春1月14日に日本足彦国押人天皇(=孝安天皇)を皇太子としました。天足彦国押人命は和珥臣(ワニノオミ)たちの始祖です。
即位83年の秋8月5日に孝昭天皇は崩御しました。

このように、「古事記」「日本書紀」とも事績に関する記述がまったくありません。


〇晋の滅亡


実は孝昭天皇在位の時代に大陸ではとても大きな出来事がありました。

晋の滅亡です。

春秋戦国時代(しゅんじゅうせんごくじだい)と一般的に中国史で言われている時代で、紀元前770年に周が都を洛邑(成周)へ移してから、紀元前221年に秦が中国を統一するまでのことをいいますが、紀元前403年に晋が韓・魏・趙の三国に分裂する前を春秋時代、それ以降を戦国時代と分けています。晋は統一王朝ではありませんでしたが、当時は大陸の中心部を統治しておりました。

晋の滅亡によって、中国大陸はまさに群雄割拠の時代へと移りかわり、それは、前述の秦が統一するまでの間続きますが、この時代に日本がどのように関わっていったかということは極めて謎になっております。

実は、それこそが日本国の歴史以上に謎めいており、つまり逆の言い方をすれば、現代では定説になっているこの時代の天皇を「古代中国の革命思想である辛酉革命に合わせることで、皇室の起源の古さと権威を示すために偽作したという推測」を根底から覆すことになると考えられます。

冒頭に記しましたように、そもそも神道や稲作とはなにも関係がない「夏祭り」が江戸期に盛んになり現代ではごく普通の伝統文化になっているように、歴史というのは、ある一定の時間、もっといえば、ごく限られた人間の理屈で変わってしまうものでもあります。

欠史八代は、そんな歴史の典型的な一例ではないかと思います。








0コメント

  • 1000 / 1000