四代 懿徳天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)

そういえば、七夕に関して書こうと思っていたのですが、かれこれ随分時間がたってしまいました。

そもそも、七夕という行事は、中国で始まったことであることはご存じだと思います。

と、申しますか、日本っぽくないですよね。

それは、一年に一度しか会えない...


というところが、最早、この国らしくないのですね。

日本という国はそういう風習はあまり歓迎されない土壌にあります。
なぜなら、日本は共存共栄しないとなりたたない国なのですね。
そもそもがそういう土壌の上に、そういう文化を形成させてきた国家なのですから...
如何にも、この考えは、「争いの多い国」、或いは、「敵と味方」、「群雄割拠」とか、普段からそういう環境にあるところでないと中々そういう発想も生まれないのですね。


発想は環境から生まれるものです。

七夕といえば、牽牛と織姫ですが、そのモデルは、南北朝時代(注ー中国の... 西暦439年から589年まで)という説がありますので、そんなに古いものではありませんね。しかし、実際は、その話と、7月7日という日の整合性ははっきりいたしません。

というか逆にいえば、日本という国ほど、古代に、色々な世界の多様な文化や民俗を取り入れてきたということでしょうか。
そしてそこから生まれたオリジナルをずっと長いこと守ってきました。
あるときまでは...

そうそう、わたくしがここで書きたかったのは、そっちの話ではなく、この「織女」のことなのです。

日本では、「織姫さま」ともいいます。
おひめさまです。
では、そのおひめさまはどなたなのでしょうか??

これは、ご存じの方も多いと思いますが、「瀬織津姫さま」ですね。

だって、お名前がそう表記されておりますから...
無論、それだけではありませんが、このことを書き出すと、また終わらなくなってしまいますので、そうでなくても、もう、ここまで、随分書いてしまいましたので...

あ、実は七夕も旧暦(天保暦)ですが、大体がお盆(旧暦の7月15日)と併せてこの行事は日本では浸透しました。
でも本来、五節会の日なのですね。
しかもこの日は「相撲節会」。
これは、垂仁天皇7年(紀元前23年)7月に怪力との誉れ高い野見宿禰と当麻蹶速が召されて相撲をとったことを由来にその後奈良時代に始まったお祭りなのですね。

最早、織姫も彦星もどこにもおりません。

しかも、新暦になってからは、8月のお盆とセットにして、仙台に代表されるように8月に七夕まつりを開催するところが多くなってきました。

そんな訳で、いまここで書くタイミングが一番良いのかと、ムリクリ正当性を主張してみました。


〇懿徳天皇

(古事記原文)
大倭日子[金+且]友命坐輕之境岡宮 治天下也 
此天皇 娶師木縣主之祖 賦登麻和訶比賣命 亦名飯日比賣命 生御子 御眞津日子訶惠志泥命自訶下四字以音 
次多藝志比古命二柱 故 御眞津日子訶惠志泥命者 治天下也 
次當藝志比古命者血沼之別多遲麻之竹別葦井之稻置之祖
天皇御年 肆拾伍歳 御陵在畝火山之眞名子谷上也

(現代語訳)
大倭日子鉏友命(オオヤマトヒコスキトモノミコト=懿徳天皇)は軽の境丘宮に来て、天下を治めました。
懿徳天皇は師木県主(シキノアガタヌシ)の先祖の賦登麻和訶比売命(フトマワカヒメノミコト) 別名、飯日比売命(イヒヒヒメノミコト)を娶って、御真津日子訶恵志泥命(ミマツヒコカエシネ)と多芸志比古命(タギシヒコノミコト)を産みました。
このニ柱のうち、御真津日子訶恵志泥命(ミマツヒコカエシネノミコト=考昭天皇)が天下を治めました。
多芸志比古命(タギシヒコノミコト)は血沼之別(チヌノワケ)・多遅麻(タヂマ)の竹別(タケノワケ)・葦井(アシヰ)の稲置(イナキ)の先祖です。
懿徳天皇は45歳で亡くなりました。 お墓は畝火山(ウネビヤマ)の真名子谷の近くにあります。

古事記には例によってこの程度です。


一方で日本書紀にはもう少し色々書いてあります。
ちょっと読んでみたいと思います。

(日本書紀ー懿徳天皇※現代語訳)

大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト=懿徳天皇)は磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト=安寧天皇)の第二子(フタハシラニアタリタマフミコ)です。母(イロハ)は渟名底仲媛命(ヌナソコナカツヒメノミコト)といいます。事代主(コトシロヌシ)の孫の鴨王(カモノキミ)の娘です。

磯城津彦玉手看天皇の11年春1月1日に大日本彦耜友天皇は皇太子になりました。
年齢は16歳でした。

安寧天皇38年のとくに、磯城津彦玉手看天皇が崩(カムアガリ=神になって天に上がる…死ぬこと)しました。懿徳天皇元年の春2月4日に皇位につきました。
秋8月に磯城津彦玉手看天皇を於畝傍山南御陰井上陵(ウネビヤマノミナミノミホトノイノヘノミサギ)に葬りました。9月に皇后(先代安寧天皇の皇后の渟名底仲媛命のこと)を尊び皇太后としました。この年は太歲辛卯でした。

2年の春1月5日。都を軽(カル=奈良県橿原市大軽町)に移しました。これを曲峽宮(マガリオノミヤ)といいます。2月の11日。天豊津媛命爲皇后(アマトヨツヒメノミコト)を立てて皇后としました。

ある書によると磯城縣主葉江(シキノアガタヌシノハエ)の弟の猪手(イテ)の娘の泉媛(イズミヒメ)といいます。

また、ある書によると磯城縣主太眞稚彦(シキノアガタヌシフトマワカヒコ)の娘の飯日媛(イイヒヒメ)といいます。

后は觀松彦香殖稻天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト=孝昭天皇)を生みました。

ある書によると弟は武石彦奇友背命(タケシヒコアヤシトモセノミコト)です。
22年の春2月12日に觀松彦香殖稻天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト=孝昭天皇)を立てて皇太子にしました。年は18歳でした。

34年の秋9月8日に懿徳天皇は崩しました。


〇事代主神と鴨王

いやぁ、古事記はそのままでしたが、日本書紀は面白いですね。

事代主神と鴨王を拾ってしまいました。

これは大発見!(って、古代史研究家のかたには当たり前のことでしょうが、筆者はとっても嬉しい!)
まずもって、こういうところで事代主さまにお目にかかれるなんて...

しかし、振り返ってみますと、事代主神(別名 八重言代主神)さまのことはこのブログでもあまり触れておりませんでした。

国譲りのところに少し書いたくらいですね。

いずれ、きちんと書かなくてはいけませんね。そういう意味もあって発見してしまったのかもしれません。

なんといっても「天の逆手」なんですね。

少し前のことですが、この天の逆手がどうしても頭から離れない(理解しがたくて...)、実際にどうやるのかやってみたことがあるのです。
何人かでオトナのお酒トークをしていたとき。
そうしたら、突然、とても霊力のあるかたが、急に震えだして、筆者にいまなにをしたんだと問われたので、わたくしは古事記の国譲りの一節をご紹介したら、それは呪いをかけたのであって(記紀にもそうあります)、そんなこと素人が真似するもんじゃないって言われて、その後、そのかたがお祓いしてくださったのですが、遊び半分(筆者は至って真面目に、だったのですが...)にそんなことすると、邪鬼・邪霊を引き寄せてしまうからやめなさいって言われました。

そういうこともあって、筆者にとってはちょっと遠いのですが、そのお力にはとても憧れもある神さまです。
なんといっても大国主神さまの後継者だったわけですから。

そして鴨王(かも の きみ/かも の おおきみ)、またの名を天日方奇日方命(あまのひがたくしひがたのみこと)が、母の父、つまり外祖父であると書いてあります。この鴨王は事代主神さまの孫にあたります。

ということはつまり、懿徳天皇は出雲系の血統が入っているということなんですね。

但し、古事記では、この記載は消されました。
というか、そもそも記紀では母君が違いますので。

日本の正史である日本書紀に記載されたことを、どうして古事記はここでも消して変えてしまったのでしょうか??

いや、実に面白いですね。
どうしてかというと、こういう部分に、一体古事記は誰がなんのために書かせたのか、その本質がしっかり見届けることができるのですね。

ここ、絶対に落としてはいけないところなんです。
もうちょっとだけお話しますと、この鴨王というのは、三輪氏・賀茂氏の祖にあたる人物なんですね。

ここまでお話すれば、この最近はごくごく稀にしか書いていないすっかりさぼりクセのついてしまったこのブログですが、しっかりお読みいただいているかたには、筆者の言わんとしていることの想像がつくと思し召しますが...

ほら、欠史八代なんて、どこのどなたが仰ったのでしょうか??

こんなに記紀編纂の謎が色々を解明されてきましたね...

まだまだ、これから、面白くなりますので...

0コメント

  • 1000 / 1000