六代 孝安天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)


前回に引き続き、東北地方に関わる話題を少しだけ...

阿弖流為の話を書きましたが、日本史上にはじめて東北地方の表記があるのは、恐らく、日本書紀にある、四道将軍のことでしょうか??

これは以前に、「岩代一ノ宮 伊佐須美神社」の記事に書きましたので省略いたしますが、それ以前だとすると、考古学的には色々な発見があります。近年の考古学という側面からの学術的見地は重要で、特に古代史においては、考古学の裏付けによって、いままでは意見が分かれていた部分でも決定的な証明になるものも出てきておりますし、また大きな参考意見に繋がるものが多数出てきております。

筆者が結構不思議に思っていたのは、前述の阿弖流為と坂上田村麻呂もそうなのですが、この平安時代になってから、なぜ、唐突にこの地域を日本国という認定をしようとしたのでしょうか。

無論、これに大きくかかわったのは、その前の奈良の大仏鋳造であることは間違いありません。

ですが、ご存じの通り律令制度におけるこの地方の線引きは非常に大雑把で、越後より北は、出羽国と陸奥国で一応、それぞれは細かく区分されて名称がついているものの、それらが所謂「領国」として位置づけられたのは明治時代になってからであり、国というよりも地域という感覚だったことは強ち間違っていません(奈良時代の「岩代」と「岩背」はちょっと特殊で例外ですが...)。

しかし、前述した大仏鋳造の際に、この地域からは金が出土していた記録が残されており、それは平安時代に奥州藤原氏という朝廷に勝るとも劣らない権力の台座を支えることとなりますが、この時代においては、まだ、税徴収というよりも労働力の提供と、金の出土がメインででした。

それが一転したのは、やはり平安京遷都という一大事業だったと思います。

こういうことは、略、日本史の授業では教わりません(現在はぞんじませんが...)が、遷都こそ、莫大な経費と係ったものはないでしょう。

わたくしがこの国の歴史で特に昔から注目していることのひとつに、この「遷都事業」があります。

それこそ古代では天皇が変わる度に都を変えておりましたが、これは確かに天皇という存在の権威というものなのかとずっと思っておりましたが、それだけでなく、その天皇に最も姻戚関係の近い者の権力だということに高校時代くらいからは気づきだしました。

ところが、この平安京遷都ほど、日本史上、未だかつて謎の多い遷都はありませんでした。

この話、また長くなるので、ごくごく簡単に述べますと、そもそも桓武天皇は長岡京というところに遷都いたしましたが、その新しい都の造営途中に責任者である藤原種継が暗殺されてしまいます。この詳細を書き出すと長くなるので、ここを飛ばして、その後平安京に遷都しますが、前述の莫大な資金調達で、朝廷の財政赤字は膨れ上がる一方でしたので、その対策の重要な調達原資として、この東北地方をきちんとした領土にすることに執拗に取り組みました。と、考えるのがとても素直であると思います。

その後、蝦夷征伐をきっかけに、平将門や、清原氏への介入と、平安時代の間は東北地方開拓に朝廷は終始いたしました。

ですが、その結果としてなにが残ったかというと、それは皮肉にも荘園制から封建制、摂関政治から武士政権への変遷だったわけなんです。

って、かなり強引な論旨でまとめてしまいましたが、そんな感じで、この東北地方というのは、まだ領土の枠組みもしっかりしていないときから日本史に大きな影響を与えてきていたのでした。逆の言い方をすれば、もし、平安京遷都の多額な債務ななく、東北地方を領国にするための時間を費やさなかったなら、荘園制を礎とした摂関政治は崩れることがなく、その後も続いていたかもしれません。そして武士が台頭し、政権を握ることもなかったでしょう。

実におもしろいですね。



〇六代 孝安天皇

(古事記原文)
大倭帶日子國押人命、坐葛城室之秋津嶋宮、治天下也。
此天皇、娶姪忍鹿比賣命、生御子、大吉備諸進命、次大倭根子日子賦斗邇命。
二柱。自賦下三字以音。故、大倭根子日子賦斗邇命者、治天下也。
天皇御年、壹佰貳拾參歲、御陵在玉手岡上也。

(現代語訳)
大倭帯日子国押人命(オオヤマトタラシヒコクニオシヒトノミコト=孝安天皇)は葛城の秋津島宮で天下を治めました。
孝安天皇が姪の忍鹿比売命(オシカヒメ=先代孝昭天皇の子の天押帯日子命の娘)を娶って産んだ子供が大吉備諸進命(オオキビモロススメノミコト)、大倭根子日子賦斗邇命(オオヤマトネコヒコフトニノミコト=孝霊天皇)の二柱です。
大倭根子日子賦斗邇命(オオヤマトネコヒコフトニノミコト=孝霊天皇)は天下を治めました。
孝安天皇は123歳で亡くなりました。
お墓は玉手岡(タマデノオカ)のあたりにあります。

※孝安天皇の記述に至っては、更に短くなってしまっていますね。

ですので、ここでも、日本書紀と比べてみます。

(日本書紀 現代語訳)
日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノスメラミコト=孝安天皇)は觀松彦香殖稻天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト=孝昭天皇)の第二子です。母は曰世襲足媛(ヨソタラシヒメ)です。尾張連(オワリノムラジ)の遠祖の瀛津世襲(オキツヨソ)の妹です。天皇は觀松彦香殖稻天皇(=孝昭天皇)が即位して68年の春1月に皇太子となりました。
孝昭天皇即位83年の秋8月。觀松彦香殖稻天皇(=孝昭天皇)が崩御しました。
孝安天皇元年の春1月27日に皇太子(=孝安天皇)は皇位につきました。
秋8月に皇后(孝昭天皇の皇后の世襲足媛)を尊び、皇太后としました。この年は太歲己丑です。
即位2年冬10月。都を室(ムロ=奈良県御所市室)に移しました。これを秋津嶋宮(アキヅシマノミヤ)といいます。
即位26年の春2月14日。姪(ミメ)の押媛(オシヒメ)を皇后にしました。
ある書によると磯城縣主葉江(シキノアガタヌシハエ)の娘の長媛(ナガヒメ)です。
またある書によると、十市縣主五十坂彦(トオチノアガタヌシイサカヒコの娘の五十坂媛(イサカヒメ)です。
后は大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト=孝霊天皇)を生みました。
38年の秋8月14日。觀松彦香殖稻天皇(=孝昭天皇)を掖上博多山上陵(ワキガミハカタノヤマノカミノミササギ)に葬りました。
76年の春1月5日。大日本根子彦太瓊天皇(=孝霊天皇)を立てて皇太子としました。このとき年齢は26歳。
102年の春1月9日に孝安天皇は崩御しました。


先代の孝昭天皇が多くの血縁ネットワークを築いたことに比べますと、この孝安天皇は吉備国に御子を送ったものの、残念ながら血縁を結べなかったようです。そんなこともあったせいか、この天皇に関する記述はかなり少ないのかもしれません。



〇孟子とアレクサンドロス大王


ところで、今回も「竹内文書」にある同時代の記述に着目いたしますと、この時期に孟子が来日しているようです。

孟子と言って最初に思いだすのは「孟母三遷」でしょう。

「最初は墓地の近くに住んでいましたが、孟子が葬式の真似事を始めたので母は家を移しました。それは移は市場の近くで、やがて孟子が商人の真似事を始めたので母は再び家を移して、次に移った所は学問所の近くで、やがて孟子が学問を志すようになったので母はやっと安心しました」という話をそういいます(諸説あります)が、無論これは史実でもなんでもないでしょう。

寧ろ「孟母断機」の故事が有名で、「孟子が学業を途中で辞めて家に帰って来たときに、母はちょうど機を織っていましたが、その織物を刀で切断し『お前が学問を途中で辞めるのは私が織物を断ち切るのと同じことだ』と言って諫めたところ、孟子は再び勉学に励みました」という話です。その孟子は「性善説」派として知られ、後に「仁義による王道政治を目指し」ましたが、竹内文書では、その基礎となったのは孝安天皇の御代に五年間来日し、その政道に、学んだとことに起因していると記されております。

孝安天皇の具体的な政策が、記紀その他の文献になにも、記されていないのは残念です。

また、この時代世界的にも大きな動きがあり、特に紀元前327年(孝安天皇66年)には、中央アジアを支配していたアケメネス王朝のペルシア帝国が、アレクサンドロス大王の侵攻によって滅亡してしまいます。

中でも「ガウガメラの戦い」においては、アレクサンドロス軍は47,000の数で、チグリス川上流のガウガメラで20万とも30万(100万という説もあります)ともいわれたダレイオス3世指揮下のペルシア軍を破ったと言われています。大陸は相変わらず戦国時代が続いており、全世界的に戦の絶えなかった時代でありますが、この全世界的な流れというのは妙なもので、結構、時代時代にそういう兆候があるものでもあります。

第二次世界大戦もそうでしたが、その前は15~16世紀、このときは日本でも戦国時代(筆者はこれを否定しておりますが...)で、なんともうしますか、連鎖とでもいうのでしょうか??

こういう、ときの風潮というのか、それともなにかもっと大きな力が働いているのか、時代の胎動なのかもしれません。

そういう時代だけに、日本はその中から外れていたのか、それとも単に文書に残さなかったのか、いやいや、もっといえば、この出来事の一部始終が後の大きな力によってかき消されたのか??

孟子の来日が真実だとしたら、師が本当に持ち帰ったものは一体なんだったのでしょうか??



有史八代と声を大にして言うためには、もう少しでよいので、なにか学術資料を発見できないかと思います。





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