七代 孝霊天皇 (おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)


先日、ふとしたことで、またあるところに参拝に伺いました。

筆者にはここ数年、よくあることなのですが、あ、ここに行かないといけないって、とても明瞭に頭に描かれるのです。

あ、いつも申し上げるように、筆者にはそういう特別な能力はありませんし、そういう力を持っておられる方というのは、さらに日々精進、訓練されていらっしゃるそうなのですね。そんなこともしていませんので、やはり思いつきです。

ですが、人生に偶然はありません。

ということは、この「頭に浮かぶ」という行為も大変意味のある、以前から決まっていたことの現れなんですね。

そしてそれは、必ずこれまでも意味を為しています。

以前はよく、そういうことが明確にお分かりになるかたとご一緒させて頂きましたが、その当時からも、そのかたほどではありませんが、わたくしにも意味が分からずに(明確にお分かりになるかたは意味も分かっておいでですが...)具体的な場所やヒントを頂くことがありました。

その最初は、直近では「おやひこさま」だったのだと思いますが、もしかしたら、もっとずっと前なのかもしれません。

冒頭にもどり、この参拝に関しては、別の記事でまた詳しく書かせて頂きますが、前夜にそのひらめきを頂き、たまたま、旅先だったのですが、帰路の途中に位置しておりましたので、お立ち寄りさせて頂いたところ、すぐにその意図を明確に頂戴しました。

おかげさまで、この一件に関しては、怖いものなしです。

天命に叶っている行いとしていると、苦難にあっても、天が助けてくださるというような話を、聞いたことがあります。

その話を教えてくださった方々の共通項はひとつ、「人生の成功者」ばかりです。
そして、その方々はとても謙虚な方々です。
そういう人間になるのが、一番大きな目標でしょうか??
(あ、成功者、ではなく、謙虚な人間の方です...)



〇七代 孝霊天皇

(古事記原文)
大倭根子日子賦斗邇命、坐黑田廬戸宮、治天下也。
此天皇、娶十市縣主之祖大目之女・名細比賣命、生御子、大倭根子日子國玖琉命。
一柱。玖琉二字以音。
又娶春日之千千速眞若比賣、生御子、千千速比賣命。
一柱又娶意富夜麻登玖邇阿禮比賣命、生御子、夜麻登登母母曾毘賣命、次日子刺肩別命、次比古伊佐勢理毘古命・亦名大吉備津日子命、次倭飛羽矢若屋比賣。
四柱。又娶其阿禮比賣命之弟・蠅伊呂杼、生御子、日子寤間命、次若日子建吉備津日子命。二柱。此天皇之御子等、幷八柱。男王五、女王三。

故、大倭根子日子國玖琉命者、治天下也。
大吉備津日子命與若建吉備津日子命、二柱相副而、於針間氷河之前、居忌瓮而、針間爲道口、以言向和吉備國也。
故、此大吉備津日子命者、吉備上道臣之祖也。
次若日子建吉備津日子命者、吉備下道臣、笠臣祖。
次日子寤間命者、針間牛鹿臣之祖也。
次日子刺肩別命者、高志之利波臣、豐國之國前臣、五百原君、角鹿海直之祖也。
天皇御年、壹佰陸歲。御陵在片岡馬坂上也。


(現代語訳)
大倭根子日子賦斗邇命(オオヤマトネコヒオフトニノミコト=孝霊天皇)は黒田の廬戸宮(イホトノミヤ)で天下を治めました。
孝霊天皇は十市県主(トイチノアガタヌシ)の祖先である大目(オオメ)の娘の「細比売命(クハシヒメ)」を娶って生まれた子供が大倭根子日子国玖琉命(オオヤマトネコヒコクニクルノミコト)です。
また春日千々速真若比売(カスガノチチハヤマワカヒメ)を娶って産んだ子供が千々速比売命(チチハヤヒメ)です。
また意富夜麻登玖邇阿礼比売(オオヤマトクニアレヒメ)を娶って産んだ子供が夜麻登登母母曽毘売命(ヤマトトモモソヒメノミコト)
日子刺肩別命(ヒコサシカタワケノミコト)
比古伊佐勢理毘古命(ヒコイサセリビコノミコト)――別名を大吉備津日子命(オオキビツヒコノミコト)
倭飛羽矢若屋比売(ヤマトトビハヤワカヤヒメ)
の4柱です。
阿礼比売命(=オオヤマトクニアレヒメのこと)の妹の蝿伊呂杼(ハエイロド)を娶った産んだ子供が 日子寢間命(ヒコサメマノミコト)
若日子建吉備津日子命(ワカヒコタケキビツヒコノミコト) のニ柱です。
孝霊天皇の子供たちは合わせると8柱…そのうち男が5柱で女が3柱です。

オオヤマトネコヒコクニクル命(孝元天皇)が天下を治めました。
大吉備津日子命(オオキビツヒコノミコト)と若建吉備津日子命(ワカタケキビツヒコノミコト)は協力して針間(ハリマ)の氷河(ヒカワ)に忌瓮(神を祭るための酒瓶のこと)を置いて、入り口として吉備国を平定しました。
大吉備津日子命(オオキビツヒコノミコト)は吉備の上道臣(カミツミチノオミ)の祖先です。
若建吉備津日子命(ワカタケキビツヒコノミコト)は吉備の下道臣(シモツミチノオミ)・笠臣(カサノオミ)の祖先です。
日子寤間命(ヒコサメマノミコト)は針間の牛鹿臣(ウシカノオミ)の祖先です。
日子刺肩別命(ヒコサシカタワケノミコト)は高志の利波臣(トナミノオミ)・豊国(トヨクニ)の国前臣(クニサキノオミ)・五百原君(イホハラノキミ)・角鹿済直(ツヌカノワタリノアタヒ)の祖先です。
孝霊天皇は106歳で亡くなりました。
お墓は片岡の馬坂(ウマサカ)のあたりにあります。


先代の孝安天皇よりは少し記述が多くなっています。

前半は孝霊天皇とその御子さまたちの記述、そして後半はその御子さまたちがどのようになったか、ようするに、古代の天皇家がどのように有力豪族を血縁にしていったか、いわばこれはネットワークをどうやって構築していったかという過程が記されております。
そういう意味では、2代~9代は決して「欠史八代」ではなく、天皇家がその勢力を拡大していったという「有史八代」なのであります。


〇秦の始皇帝の登場

さて、この孝霊天皇の時代に大陸は大きく様変わりをいたしました。
秦の始皇帝が、紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げると最初の皇帝となり、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨しました。
紀元前221年は、孝霊70年、紀元前210年は孝元5年ですので、日本でいうと、孝霊天皇の御代から孝元天皇の御代にかけて、始皇帝は君臨されていたということになります。

始皇帝(諱は政)は紀元前246年にわずか13歳で秦王に即位しました。その後、紀元前230年から221年の10年間で、韓・趙・魏・楚・燕・齊の戦国七雄を次々と滅ぼし天下を統一しました。そして182年間にも及んだ戦国時代に終止符を打ち、自らを始皇帝と称しましたが、実は彼は秦王朝の血筋ではなく、秦王に宰相として仕え、紀元前249年に秦の相国(廷臣の最高職)となった呂不葦というひとでした。この呂不葦はそもそもはシルクロード交易の商人であり、実はペルシア帝国滅亡後に秦にやってきたユダヤ人の子孫でした。つまり中国最初の統一国家の皇帝はユダヤ系だったということです。

※注 この議論に関しては、異論や別の説もあります。

そして、この時代に、始皇帝の使者として、徐福が来日したという記録があります。なんのために来日したかのかというと、オモテ向きは不老不死の薬を探しに来たということになっておりますが、実は、日本の神代文字の研究に来たと言われています。
なるほど、だから、手塚治虫先生は始皇帝を「火の鳥」の題材にはされなかったのですね。

この徐福に関しては、実は、次の孝元天皇の御代にも登場いたしますので、その際に、もうすこし触れさせて頂こうと思います。

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