八代 孝元天皇 (おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)


前回、少しだけですが、手塚治虫氏作品の「火の鳥」に触れましたが、実は、筆者はフリークほどではありませんが、手塚ファンでもあります。
特に「火の鳥」、「ブッダ」、「ブラックジャック」が愛読書です。手塚作品は無論初期も好きなのですが(「ロストワールド」、「来るべき世界」や、「ジャングル大帝」です)、やはり後半の氏の作品は、かなり熟成されてきたと思っております。
実は、実家には講談社刊『手塚治虫文庫全集』もありますが、全200冊なのに、なぜか数刊欠けています。その理由は友人が勝手に借りて行って、まだ返してくれないのです。もう、30年前のことですから致し方ありませんが...
しかし、あの全集は確か1976年から順次発売になり、当時は小遣いの略9割がレコード代でしたから、その中からあの本を揃えるのも結構やりくりしてました...笑

手塚氏がなぜ好きなのかというと、テーマの根底に「生命の尊厳」が謳われているからです。筆者は極端に「反戦」を表に出したものは好きではありません(無論、戦争はNOです。誤解なきように...)が、手塚氏の反戦は生命尊厳からの反戦だと理解しているので、氏の作品は読めます。既出の「火の鳥」も「生命の尊厳」がテーマです。

その「火の鳥」で当時一番印象に残ったのは、「黎明編」に出てくる神武天皇のモデルです(※注 最初の「黎明編」は卑弥呼が隠れたところで終わっておりますがこれは連載が中止になったからです。書き直された黎明編に騎馬民族の王として描かれています。まだこの時代、神武東征及び大和朝廷は騎馬民族征服説だったのですね...)。この神武天皇は、他の人間が執着する、「不老不死~永遠の生命」を宿される火の鳥の生き血には全く興味を示さず、かわりにその火の鳥(何度も蘇生するという不死鳥という設定)に向かって自身の偉業(日本の統一)を永遠に語り継ぐように命令します。
いま、考えると、この神武天皇は嫌な奴ですね...
でも当時は感動しました。

それよりも、この「火の鳥」には一貫して、「イザ」と「ナギ」、そして「猿田彦」が出てきます。

あの頃はそんなに記紀には精通しておりませんでしたし、原文読むのが億劫で敬遠しておりましたが、変わりにこの漫画作品で一応補習はしていたのだったのだと、感慨深く思います。

手塚氏がこの作品を書かれた頃と、日本史解釈はかなりかわりました。
いまだったら、どなたを主人公にされるのでしょうか??
それはとても興味があり、色々推測することもまた楽しみです。
残念ながら解答はありませんが...  


〇八代 孝元天皇

(古事記原文)
大倭根子日子國玖琉命、坐輕之堺原宮、治天下也。
此天皇、娶穗積臣等之祖・內色許男命色許二字以音、下效此妹・內色許賣命、生御子、大毘古命、次少名日子建猪心命、次若倭根子日子大毘毘命。三柱。
又娶內色許男命之女・伊賀迦色許賣命、生御子、比古布都押之信命。自比至都以音。
又娶河內青玉之女・名波邇夜須毘賣、生御子、建波邇夜須毘古命。一柱。
此天皇之御子等、幷五柱。

故、若倭根子日子大毘毘命者、治天下也。

其兄大毘古命之子、建沼河別命者、阿倍臣等之祖。
次比古伊那許士別命、自比至士六字以音。此者膳臣之祖也。
比古布都押之信命、娶尾張連等之祖意富那毘之妹・葛城之高千那毘賣那毘二字以音、生子、味師內宿禰。
此者山代內臣之祖也。
又娶木國造之祖宇豆比古之妹・山下影日賣、生子、建內宿禰。

(現代語訳)
大倭根子日子国玖琉命(オホヤマトネコヒコクニクルノミコト=孝元天皇)は軽の堺原宮(サカヒハラノミヤ)で天下を治めました。
穂積臣の祖先である内色許男命(ウツシコヲノミコト)の妹の内色許売命(ウツシコメノミコト)を娶った産んだ子供が、
大毘古命(オオビコノミコト)、少名日子建猪心命(スクナヒコタケイゴコロノミコト)、若倭根子日子大毘々命(ワカヤマトネコヒコオホビビノミコト=開化天皇)、 三柱です。
また内色許男命の娘の伊迦賀色許売命(イカガシコメノミコト)を娶った産んだ子供が比古布都押之信命(ヒコフツオシノマコトノミコト)です。
また河内青玉(コウチノアオタマ)の娘の波邇夜須毘売(ハニヤスビメ)を娶って産んだ子供が建波邇夜須毘古命(タケハニヤスビコノミコトです。
孝元天皇の子供はあわせて5柱です。

このうちワカヤマトネコヒオオビビ命(=開化天皇)が天下を治めました。
その兄のオオビコ命の子のタケヌナカワワケ命(建沼河別命)は安部臣の祖先です。ヒコイナコジワケ命(比古伊那許士別命)は膳臣(カシワデノオミ)の祖先です。
ヒコフツオシノマコト命が尾張連(オハリノムラジ)などの祖先のオオナビ(意富那毘)の妹の葛城のタカチナビメ(高千那毘売)を娶った産んだ子が味師内宿禰(ウマシウチノスクネ)です。
味師内宿禰は山代の内臣(ウチノオミ)の祖先です。
またヒコフツオシノマコト命が木国造(キノクニノミヤツコ)の祖先の宇豆比古(ウヅヒコ)の妹の山下影日売(ヤマシタカゲヒメ)を娶って産んだ子供が建内宿禰(タケシウチノスクネ)です。
建内宿禰の子供は合わせて9人。男が7人で女は2人です。 

孝元天皇の記述は、前半が即位と御子たちについて、そして後半はその御子たちの経緯について記述されています。
そしてなんとなんと、あのおかたが登場いたしました。
建内宿禰です。
この方は古代史を紐解く上に於いて、大変重要なキーパーソンです。

そして、この後、色々なところに登場して参ります。

ですが、なんといっても重要なことは、この欠史八代と言われる天皇の時代に出てこられていること。
この事実は重要です。

やはり欠史ではなく有史八代なんです。
だから、この方の血縁に関してもしっかり記述があるのです。

これからがとても楽しみですね、どのようにかかわってこられるのでしょうか?





〇徐福について


司馬遷の『史記』巻百十八「淮南衡山列伝」によると、秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と具申して始皇帝の命で、を受け、3,000人の童男童女と百工(大勢技術者)を従えて、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出したものの、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり、秦には戻らなかったとの記述があります。

また同じく『史記』巻六「秦始皇本紀」に登場する徐氏は、始皇帝に不死の薬を献上すると持ちかけ、援助を得たものの、その後始皇帝が現地に巡行したところ、実際には出港していなかったので、改めて出立を命じたものの、その帰路で始皇帝は崩御したという記述となっていて、「不死の薬を名目に実際には出立せず、皇帝から金品をせしめた詐欺師」として描かれています。

一方で、日本に於いては、全国各地に徐福の伝承が残されております。

中でも特に有名なのが熊野の地(現在の三重県熊野市波田須町)に辿り着いたというものがよく知られていて、波田須駅付近には徐福ノ宮があり、彼が持参したと伝わるすり鉢をご神体としています。 同地からは秦代の貨幣である秦半両が出土しており、伝説と関連するのではとも言われております。近隣の和歌山県新宮市には、徐福の墓とされるものが伝わっており、徐福公園が造られています。

そのほかにも、佐賀県佐賀市の金立山には徐福が発見したとされる「フロフキ」という植物が自生し、フロフキは、カンアオイの方言名で、地元では「不老不死」が訛ってフロフキになった等ともいい、この区ではその昔、根や葉を咳止めとして利用していたと言われています。

また、京都府伊根町、長野県佐久市、静岡県富士吉田市でも実際に徐福が暮らしその子孫の痕跡があったと言われておりますし、それ以外にも鹿児島県出水市・いちき串木野市、宮崎県延岡市、広島県廿日市市、愛知県一宮市・豊川市、東京都八丈町、秋田県男鹿市、青森県中泊町などに伝承が存在しています。

ところで、孝霊天皇のところでも書きましたが、徐福の来日の本当の目的は不老不死ではなく「神代文字の研究」だったという説です。これはとても興味深い探究です。なぜなら、始皇帝が行ったもっとも大きな悪行は「焚書坑儒」です。これにより、始皇帝は中国のそれまでの歴史をすべて焼き払ったということになります。いつも言うように、歴史は勝者の理屈、理論でありましょうが、これはすでにそんな度合を越えており、悪行です。

つまり、徐福の本当の使命とは、第二の秦国を設立することだったのでしょう。

それは、表向きは不老不死の薬草を求めることで、誰にも疑われない。しかし、その実態は文字の探究であり、さらにはこの徐福伝承があり場所というのは、実は、当時の大和政権では、まだまだ力の及ばない、眼のとどかない所ばかりだったことであることに着目できます。

実際に、この当時の朝鮮半島南部にはまだ朝鮮民族の統治により国の存在はなく、日本と、そしてここにも徐福の伝承があり、その後は秦国の民が流れてきています。その血統においては、その後のわが国の「京都」を造ることになるところとも繋がっております。

これは推測ですが、始皇帝は自分が居なくなったら秦は中国を統治できないと考えていたのでしょう。それは、はじめてこの大国に統一国家を作り上げた者にしか分からない現実だったのでしょう。なので、書物を焼き、思想を排除し、さらには、子孫が生き残れる道と場所を探したのだと考えます。

そしてこの頃から、大陸と半島とこの日ノ本は、微妙なトライアングル関係を余儀なくされることで、この国の歴史もまた、大きく揺らいでいくのであります。








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