二代 綏靖天皇 (かんぬなかわみみのすめらみこと)

神武・綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化・崇神・垂仁・景行・成務・仲哀....

筆者が子供の頃、両親や伯父伯母、さらに祖母は、みな、戦前は歴代天皇暗唱できたと言っていました。

ですが、ちゃんと聞くと、母は推古天皇くらいまで、父は桓武天皇の次がいつも嵯峨天皇になってしまい、そのあとは、「うーん白河天皇(そんなに飛ばかぁ...)??」と、お手上げしてました。
しかし昔は今上天皇(その当時は昭和天皇)まで言えたって豪語してました。言えないと先生に怒られたそうです。

かくいうわたくしも、一時期覚えようとしたことがありましたが、実は、当時、歴史時代の好き嫌いもあり、最初の方はなかなか覚えられなかったのですが、
「欽明・敏達・用明・崇峻・推古・舒明・皇極・孝徳・斉明・天智・弘文・天武・持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳」
のあたりとか、
「白河・堀河・鳥羽・崇徳・近衛・後白河・二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽・土御門・順徳・仲恭・後堀河」
のあたりとかは自然に記憶できましたが、どうも前半は頭にはいりませんでした(あ、順番を記憶していただけで九九みたいに暗唱できるのではありません。歴史という時代背景が頭にあって政権交代という歴史事象に照合させて覚えている構図です)。
暗記とは、微妙に得意、不得意があるようです。

そう、よく受験の社会科は暗記の学問なんて言われましたが、筆者は理系の暗記はからきしダメでした。
元素記号なんていまだによくわかりません。
それでも、社会に出たら、メディカル系の仕事でベンゼン環は理解できましたから(これも前述の歴代天皇の暗唱と一緒で、必要だから理解できるという構図です)、世の中はなんとかなるものです。

歴史を「暗記の学問」にして歴史嫌いになってしまったかたがいらしたとしたら、それはたいへん残念なことです(ウチの娘たちなんかまさにその類いでした。でもK-POPから転じて、韓国の歴史は詳しいです...笑)。

そうです、歴史学は日々進化しているものでありますから。
科学なんです、学問は。

さて、最初にこんなことを言ってしまっては身も蓋もありませんが、所謂、第2代綏靖天皇から、第9代開化天皇までのあいだを俗に「欠史8代」と言っておりますが、それははっきり言って大きな間違いです。
などと、いきなり、古事記に逆説を唱えるような物言いですが、この拙ブログにおいて、約10か月にわたり神武天皇を扱い、しかもかなりの未完成の内に先に急いだのは、深く填まれば填まるほど、やはり記紀以外の文書を葬ったことに関しての疑惑が深まるばかりで、なにも進展がないことに気づいたので、一旦、打ち切り、ここから仕切り直しをと考えた次第です。

先を見ることによって、見落としにきづくことも多々ありますので...
相変わらずロープレゲーム感覚なのかもしれません。

〇綏靖天皇


(原文)
神沼河耳命 坐葛城高岡宮 治天下也 此天皇 娶師木縣主之祖 河俣毘賣 生御子 師木津日子玉手見命一柱

天皇御年肆拾伍歳 御陵在衝田岡也


(現代語訳)
カムヌナカワミミ命は葛城の高岡宮で天下を治めました。この天皇は師木県主(シキノアガタヌシ)の祖先となる河俣毘売(カハマタビメ)を娶って、産んだ子供が、「師木津日子玉手見命(シキツヒコタマデミノミコト)」の1柱です。

綏靖天皇は45歳で亡くなられました。
お墓は衝田崗(ツキタノオカ)にあります。



※古事記に書かれていることは以上です。

一方で、日本書紀には、綏靖天皇に関して、かなり多くの記載が見られます。
それを紹介いたします。

(日本書紀・現代語要約)
神渟名川耳天皇(綏靖天皇)は神日本磐余彦天皇(神武天皇)の第三子です。母は媛蹈韛五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメカミ)といい、事代主神(コトシロヌシカミ)の長女です。天皇は姿がみやびで幼きより雄々しい性格でした。成人し背丈も大きく立派になり、武芸も優れ、志の高い天皇でした。

48歳になり、神日本磐余彦天皇は崩(神になり天に上がる、崩御)り、神渟名川耳天皇は孝性は素直で深く、悲しみ偲び喪葬の儀式に取り組みました。

兄の手硏耳命(タギシノミミノミコト)は長く政に携わっており、しっかり者でしたが、義に背いてしまい諒闇(天子が喪に服す期間)に二人の弟を殺そうと計画しました。

神渟名川耳尊は兄の神八井耳命(カムヤイミミノミコト)とその殺害計画を知り、どうにか防ぎました。神武天皇の葬儀のときになり、弓部稚彦(ユゲノワカヒコ)に弓を作らせ、倭鍛部天津眞浦(ヤマトノカヌチアマツマラ)に鹿の矢じりを作らせ、矢部(ヤハギベ)に矢を作らせました。弓矢が出来て神渟名川耳尊は手硏耳命を射殺そうと思いました。手硏耳命は片丘(奈良県北葛城郡)の小屋の寝床にいました。

渟名川耳尊は神八井耳命に、
「今がチャンスだ。 言葉は控えて。 行動は静かに。 わたしの陰謀には誰も助けてくれる人はいません。今日の事はただ、私とあなたが自発的に行動するだけです。わたしが小屋の扉を開けるので、あなたが射って殺してください」
神渟名川耳尊は扉を開け、神八井耳命カは手足がふるえてして矢を射ることが出来ませんでした。神渟名川耳尊は、兄の持っていた弓矢を引き抜いて取り、手硏耳命を射ました。一発で胸に当たり、もう一発射つと背中に当たりついに殺しました。

これで神八井耳命は自分の非を恥じ、神渟名川耳尊に皇位を譲って、
「私は兄ではあるが、未熟で弱く、不能致果(良い結果は出ない)いだろう。あなたが天位(皇位)について、皇祖を継ぐのはもっともなことだ。わたしはあなたの助けとなって、神祇(アマツヤシロクニヤツシロ)を司り祀りましょう」と言いました。

神八井耳命は多臣(オオオミ=大和国十市飫富郷…現在の奈良県磯城郡城田原本町多の氏族)の始祖です。


※この後には、古事記と同じく、綏靖天皇の皇后と、皇子のことが記載されていますが、最後は少し違います。


即位四年の夏四月に神八井耳命が崩御となり、畝傍山(ウネビヤマ)の北に葬りました。
即位25年の春1月の7日。 皇子の磯城津彦玉手看尊(シキツヒコタマテミノミコト)を皇太子(ヒツギノミコ=次の天皇候補)にしました。
即位33年の夏5月に天皇は不豫(コトヤマヒ…病気)になりました。崩御されました。そのとき84歳でした。


〇記紀から解読できる正統性


綏靖天皇の年齢が、古事記では45歳ですが、日本書紀では84歳とあります。

尤も、このあとの天皇は100歳を越える方々がたくさん出てこられるので、あまりこの辺りにはなにを以て信憑性が高いかを考察するのは少し面倒なので割愛いたしますが、もうひとつ大きく異なることがあります。それは綏靖天皇の母に関しての記載です。

母の記載は記紀で異なり、『古事記』では大物主神の娘の比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)、『日本書紀』では事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)となっています。ここは大変興味深いです。

なぜなら、媛蹈鞴五十鈴媛命は、綏靖天皇の皇后の五十鈴依媛命の妹であり、いわば綏靖天皇からみれば、姨(ミオバ、叔母)にあたります。

あれ、なにかに似ていませんか??
そうなのです。
これは、日向三代の最後、ウガヤフキアエズさまと同じパターンなんです。
実に興味深いのは、それが、古事記ではなく、日本書紀に書かれていることなのです。

ここはチェックポイントです。

ところが、もうひとつ探究すべき箇所があります。

それは、古事記にある、河俣毘売さまという皇后さまです。
そもそも綏靖天皇は、神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)という名前ですが、この「神」に関しては、神武天皇が、神倭伊波礼毘古命(カミヤマトイワレビコノミコト)、ですが、一般的にイワレヒコと記載されているように(筆者もずっとそう表記してきました)、この「神」に関しては、後付けなんです。そうすると、ぬなかわみみ(渟名川耳/沼河耳)という「川の神さま」なのです。ですから、川のお姫さまをお妃にされていてそれはまったく普通のことなのですね。

そう、イワレヒコさまは「海洋国家の創建者」でしたね。

遡って、ウガヤフキアエズさまは、山の神のホヲリさまと海の神の娘トヨタマヒメの間にご誕生されましたね。
そしてここで川の神力と川を征することによって、正真正銘の「正統皇家」を、古事記と日本書紀の合わせ技によって位置づけたのです。

そのために古事記では「川」を、日本書紀では「ウガヤフキアエズさま」を、その両者の継承であることを強調しているのです。


やはり、記紀は深いです。

以降、こんな形式で、暫くは書いていこうと思います。







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