三代 安寧天皇 (しきつひこたまてみのすめらみこと)


以前にも触れたことがありましたが、筆者はこれまでの人生において、何度か歴史小説にチャレンジしたことがあります。

実際に書いたことのあるひとは4人。

平安中期のひと、平安末期のひと、南北朝時代のひと、そして織豊期から江戸時代にかけてのひと。
この内二番目のひと以外は、実に共通点があり、筆者としては、歴史人三部作なんです。
というか、二番目のひとは余りにも史料が少なすぎて、でも先代の歴史作家諸兄からの引用や、創造がほとんどで、かなりいいとこまで言ったのですが、結論、つまり歴史人物に於ける大団円のところで、このひとの人生からひとさまに自分の伝えたいことはなんなのだろうと考えこんでしまったところで、もう、それ以上、筆が進まなくなってしまいました。
大変主人公に失礼なことしたといまでも思います。

勿論、これは学生時代のことだったので、原稿用紙に万年筆で書いてましたが、400字詰め用紙に300枚くらいですから、長編にはちょっと短い分量でしょうか。無論、色々脚色を施す予定でしたが、前述の理由で断念いたしましたが、破ってはいないので、多分、実家の書庫に「国史大系」などと一緒に保管してあると思います。あれ、いつまで置いといてくれるかなぁ... 笑 レコードも...

そうなのですね、やはり歴史小説を書くにはなんといっても史料が大切なのです。

それと同時に、ラスト。エンディングになにを語れるかが大切なんですね。
よく、偉大な文学者は、文学は「書き出し」と「タイトル」が決まったところで8割以上は完成しているって言われるかたが多いのですが、歴史小説に限っていえば、少し違うと思います。

で、実は、前述の残りの三人、つまり三部作においては、エンディング、さらになにを伝えたいかは、なんともうすでに出来上がっているのですね。しかし、残念なことにプロットの絶対量が足りなくって、ストーリーにしたら途切れ途切れ。書いていきながら色々気づくこともありますが、それには、本業ではないので集中できないといういいわけ。

そう、これはいいわけ。

人間、時間を理由にしたときには、ただのいいわけです。
いいわけしてます...
いいわけはいいわけありません...笑

でも、面白いと思います。
特にラストは。

いつか(といういいわけ)書き上げたいな。

でも、いまは、記紀の方が面白いんです。


〇安寧天皇


(古事記原文)

師木津日子玉手見命 坐片鹽浮穴宮 治天下也 
此天皇 娶河俣毘賣之兄 縣主波延之女 阿久斗比賣 生御子 常根津日子伊呂泥命自伊下三字以音 
次大倭日子[金+且]友命 次師木津日子命 此天皇之御子等 并三柱之中 大倭日子[金+且]友命者 治天下
次師木津日子命之子 二王坐 一子孫者伊賀須知之稻置 那婆理之稻置 三野之稻置之祖 一子 和知都美命者 坐淡道之御井宮 故 此王有二女 兄名蝿伊呂泥 
亦名意富夜麻登久邇阿礼比賣命 弟名蝿伊呂杼也  
天皇御年 肆拾玖歳 御陵在畝火山之美富登也

(現代語訳)
師木津日子玉手見命(シキツヒコタマデミ、安寧天皇)は、片塩の浮穴宮においでになり、天下をお治めになられました。

この天皇が、カハマタビメの兄で、県主波延(ハエ)の娘の阿久斗比売(アクトヒメ)を娶ってお生みになった御子は、常根津日子伊呂泥命(トコネツヒコイロネ)、次に大倭日子友命(オホヤマトヒコスキトモ)、次に師木津日子命(シキツヒコ)です。この天皇の御子たち三柱の中で、オホヤマトヒコスキトモノ命は天下を治めになりました。

次にシキツヒコノ命の子は、二人おられました。そのなかの一人の子は、伊賀の須知の稲置、那婆理の稲置、三野の稲置の祖先です。今一人の子の和知都美命(ワチツミ)は、淡道の御井宮においでになりました。そしてこの御子に二人の娘がありました。姉の名は蠅伊呂泥(ハヘイロネ)で、またの名は意富夜麻登久邇阿礼比売命(オホヤマトクニアレヒメ)といいます。妹の名はで蠅伊呂杼(ハヘイロド)です。

天皇の御年は四十九歳。御陵は畝傍山の美富登にあります。


以上が古事記に書かれている全文です。
ここで、前回に倣って、日本書紀とも比較してみたいと思います。


磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)は神渟名川耳天皇(カムヌナカワミミノスメラミコト)の嫡男です。
母は五十鈴依媛命(イスズヨリヒメノミコト)で、事代主神(コトシロヌシカミ)の娘です。
安寧天皇は神渟名川耳天皇が即位して25年のときに皇太子となりました。年齢は21歳でした。
綏靖天皇が即位して33年の夏5月に神渟名川耳天皇が崩御しました。その年の7月の三日に太子は皇位につきました。
安寧天皇即位の元年冬10月11日。
神渟名川耳天皇を倭の桃花鳥田丘(ツキダノオカ)の上の稜に葬りました。皇后(=五十鈴依媛)を尊び、皇太后としました。
この年は太歲癸丑でした。
即位2年に都を片塩(=奈良県大和高田市三倉堂)に移しました。これを浮孔宮(ウキアナノミヤ)といいます。
即位3年の春1月の5日に渟名底仲媛命(ヌナソコナカツヒメノミコト)を立てて皇后としました。
皇后になる以前に二人の皇子が生まれていました。
一人は息石耳命(オキソミミノミコト)です。
もう一人は大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)です。
即位して11年の春1月に大日本彦耜友天皇を立てて、皇太子にしました。
弟の磯城津彦命(シキツヒコノミコト)は猪使連(イノツカイノムラジ)の始祖です。
即位して38年の冬12月の6日。
安寧天皇は崩御しました。その時、57歳でした。


※渟名底仲媛命は、別名を渟名襲媛(ヌナソヒメ)といいます。

※皇后のこと、ある書によると磯城縣主葉江(シキノアガタヌシハエ)の娘の川津媛(カワツヒメ)といいます。 またある書によると大間宿禰(オオマノスクネ)の娘の糸井媛(イトイヒメ)といいます。

古事記はともかく、日本書紀では綏靖天皇より記述がぐっと少なくなりますが、これは、綏靖天皇が即位する経緯(神武天皇から継承するまでの...)に関して、古事記は神武天皇の最後のところで、日本書紀では綏靖天皇の項に書いてあるために、そのように感じるのです。ですが、そのどちらを取ったとしても絶対量に関して、安寧天皇に関する記述は、綏靖天皇に比べればかなり減ったと言えるでしょう。


〇孔子来日


さて、この時代にはひとつ大変興味深い話があります。
それは、そもそも古文書に書かれていたものですが、昨今は、古代史というものを色々なほかの学問で証明できるということが可能になって参りました。

歴史の学術研究というと、これまではほとんどが「文書」をどう読むかということでした。例えば、「返り点」の打ち方、打つ場所ひとつで、意味がかわってきたり、言葉の読み方、あるいは品詞によっても意味が変わってくるものもあります。そういう語学的な研究でした、しかし、現代は考古学が発展し、また炭素14法等で古代年代の測定が応用活用されることでより正確な年代や事象の特定が可能になってきました(※炭素14法はいずれきちんと解説いたします)。それによってこれまで正しい、正しくないと肝炎づけられたものにもフィードバックされることで、まったく新しい歴史解釈として生まれ変わってきています。

「竹内文書」には、孔子がこの安寧時代に日本にわたっていたという記述があります。
「竹内文書」は現在まで偽書とされていますが、それはこの文書の本質よりも周辺で色々な事件が起こったことが、この書物の存在意義を下げてしまったのかもしれません。

孔子は、安寧天皇18年から23年(紀元前531~526年)の5年間を日本に滞在したと言われていますが、丁度この間の孔子の記録は、ほとんど残っていません。このときの孔子の年齢は22~27歳でした。その理由はまだ無名だったので記録が残っていないのかもしれません(但し、竹内文書にはこの孔子に限らず、世界の宗教家のほとんどが日本のスメラミコトに表敬訪問しに来たという記述もあります)。

ただ、孔子の理念というのは残念ながら中国ではあまり受け入れられませんでした。

儒教という学問はごくごく簡単にいうと、礼節を重んじた政治理念を確立したものと言ってよいでしょう。

そもそもの原点は、基本的には、堯・舜、文武周公のいにしえの君子の政治を理想の時代として祖述したものであり、孔子によって確立をされましたが、しかし、その後、中国に於いて、たとえば秦は法家思想を尊んでそれ以外の自由な思想活動を禁止し、焚書坑儒を起こしたり、次の統一国家である漢では、道家系の黄老刑名の学が流行しました。その後も、国家が変遷するに連れて、儒学が政治利用されることが何度もあったが、それは、孔子のオリジナルというよりも、如何に国家理念を押し通すかのごとくに様々と変容し、利用されたものだと言ってよいと思われます。


しかし、孔子のオリジナルにあるものは、日本人が大事にしてきたものがオリジナルなのではと思われる節が多く、そう考えると、孔子が来日し、当時既にある種の統一国家であったこの国のまつりごとと民との関係に、新しい儒学の構想を得たといっても全く過言ではないと思います。

残念ながら、中国では国家建設の理念には用いられませんでしたが、むしろ思想というより学問というかたちで後世に語り継がれたことを考えれば、この孔子が人生の大事な時代に来日し、彼の学問形成にこの国の風土風習が大いに役立ったと考えれば、たいへんありがたく、また、誇りに思うことだと思います。


そんな時代が、この、第三代安寧天皇の時代だったということです。






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