前回の「なぜ邇邇芸命が降臨したのか」と同様、なぜ「高千穂」に降臨したのかもとても謎?というか、興味深い内容だと思います。
普通に考えますと、国譲りの舞台にもなり、また、先にスサノオさまが降り立った「出雲」。
或いは、降臨するまえ直前の「天の浮橋」から近い大和、山科界隈。
また、たとえば、国産み最初の場所である淡路。
なにゆえ、高千穂に降臨したのかの理由を探ってみましょう。
【なぜ 邇邇芸命は高千穂に降臨しなければならなかったか?】
〇だってそうしないと後々神武東征にならないじゃないですか?
はい、わたくしはとっても部分的にコアで俗っぽい歴史オタクでした。
ですから、「神武東征」というところが所謂日本史の史実としての出発点だと思ってました。ずっと....
「やまたのオロチ」なんてのは神話というより、御伽噺的な存在?
それが、司馬遼太郎先生の「街道をゆく」の連載から変わっていったんですね。
「あ、神武天皇って騎馬民族で九州から攻めてきたんじゃない」って?
そうか、日本史って、ひとことでいえば、ずっと土壌の分捕りあいの歴史なんだって。
いやそれは日本に限らず世界史も。
ただ、日本は四方を海に囲まれ、ある意味安全、さらに肥沃な土壌なので分捕りあいも平和的。
なので、基本的に武器を持った殺し合いなんか好きな民族ではないし、神武東征も稲作の普及拡大だと考えれば、そしてそのあとの国家の政策もすべて、この狭い島国でどうやって土地をわけあったいくかなんですと。
おっと、かなり話が逸れましたが、ようするに東征するためにはなるべく西にいたほうが良い。
そんなレベルだったのですね、昔のわたくしは... こわっ!
〇出雲や大和ではない理由があります。
ここで高千穂は横に置いておき、では、出雲や大和ではなぜダメなのでしょう。
出雲なんか、いいじゃあないですか?だって国譲りをしてくださったオオクニヌシさまの本拠地なんですから。
ダメなんですね。やはり、天孫は国津神が隠居するところへは降りられないのですね。
それと、ここには以前にスサノオさまが高天原を追われて降りてきています。言い方は失礼ながら、このとき追放されたスサノオさま、いわば、流刑地みたいなものです。そこに天孫が降臨できる筈はありません。また、スサノオさまはイザナキさまのお子神さまですが、直系ではありません。残念ながら出雲がどんなに素晴らしいところでも、ニニギさまが降り立つ訳にはいかなかったのです。
では、大和はどうでしょう。大和、というかこの場合は三輪山です。オオクニヌシさまも導かれたところ。ここなら文句がないのでは。
ここに降臨することで、後々の大和朝廷の権威を最大限に高めるという効果(古事記は執筆中という体で...)
いや、ここもダメなんです。確かにここは(最終的に到達するところですが...)国津神の聖地という言い方ができてしまうのですね。
大物主神さまはどんな神さまなのか?それは記されておられません。オオクニヌシさまの荒魂という説もあります。なので、高天原の直系皇子が降りるところにはこの段階では情報がなさすぎます。そのくらい、大変なことなのですね、この降臨というのは。
〇さて、高千穂っていっても?? どこでしょうか?
ここでもうひとつ考えなければならないことがあります。
高千穂って?この場所に関しては、①九州南部霧島連峰の「高千穂峰」、そして宮崎県の「高千穂町」のふたつの説があります。
現在にはどちらの高千穂にもこの神話に由来するとされる場所が残っております。
〇古事記的に考えてみると
高千穂は、天照大御神さま生誕の地です。これは大きなポイントですね。イザナキさまの禊によって、三貴子は誕生し、なかでも第一子のアマテラスさまがその場で「嫡子」となられました。お祖母神のアマテラスさまの生誕地はニニギさまの原点でもあり、また、宗教的には「聖地」にもなり得ます。イザナキさまが禊をされ、アマテラスさまが生誕されたのが、「築紫日向」です。ニニギさまがこのご縁のある場所に降臨するのは大変自然な流れでもあります。
祝詞にも「築紫日向の橘の小戸の阿波岐原」とありますように、まさにこの地が、由緒ある場所でありニニギさまの葦原中つ国の足跡第一歩となることはまさに必定でしょう。
さらにいえば、「天安河原」は、あの「天の岩屋戸」事件の際に、神々が御集りになられ、会議を開かれたところです。
〇考古学的に考えてみると裏付けができる
さらに、考古学的に考えると、この裏付けができるのです。
前述しましたが、「神武東征」は、騎馬民族が西から大和に攻めてくる、というのは間違いですが、一方で、九州は鉄器鋳造がもっとも盛んなところでした。つまり稲作の普及のためには鉄器は国家事業で最大、また、このふたつが両輪だったといえます。
そう、なにか思い出しませんか?? スサノオさまが退治したという「八俣の大蛇」は、実際は川の灌漑治水工事でしたがあの斐伊川は鉄分が豊富で赤く濁っていましたね。そう、古事記は神話ですが、編纂当時に連なる隠れヒントがたくさんちりばめられているのですね。
〇「韓の国」は異説
もうひとつ、ニニギの従者の言葉に「ここはカラの国にも近く」とある、カラは「韓」の国だという説が有力であり、これはそれ以降国家を形成する中で渡来人の影響が強いのでここにも記されたとありますが、これはそうではないと思います。これは別のところで書きますが、「渡来人」や、「朝廷が朝鮮と密接な繋がり」という政治的なことではなく、以前よりご紹介しているように、古事記にある、北方系と南方系の「調和」なんです。
そういう「文章の妙」というのが、この国の古典の面白さ、巧妙さなんです。そしてこればっかりは、中国にも朝鮮にもまったくみられない独特の文化なんですね。
実に古事記は見事な古典書物なのであります。
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