この淡路参拝紀行シリーズ記事だけでもすでに何度か書いてますが、筆者の世代の歴史教育は惨憺たるものでした。
両親の世代(昭和一桁)もそれに次いで酷かったのですが、あの世代は一代前が明治世代なので、まだ骨格はしっかりしているのです。
ただ、わたくし個人でいえば、とっても幸いなことに筆者は祖母が今で言う歴女で、わたくしは本家の所謂嫡流ではありませんでしたが、一通りのことは祖母から教わりました。その中に、今になって貴重だと思っているのが、天の岩屋戸の神話を例にあげて、天皇の不親政を教わっていたことでした。戦後何十年もの間、天皇家にまつわる事柄はタブー視され(というか、正しくは占領軍による歴史の改竄と言論統制)、安易に思慮なくそれに乗っかったサヨクとアカにより、この世代は国家成立のアイデンティティーを根こそぎ取り除かれました。
わたくしは祖母のお陰で骨格を見失わずにおりました。
さらにいえば、小学校時代の同級生の存在、というかその両親、祖父母の世代からの影響も大きかったと思います。立派な方々が多く、そしてわたくしの祖母と同じように、明治に日本国の素晴らしさを学んだ方々でした。
そのような流れを考えると、いま、自分たちができる継承ってとても大事だと思っています。
神話を伝えるにも、正しさも必要ですが、やはり面白くないと....
それが、今回のツアーでよくわかりました。
淡路国一宮 伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)
ところでイザナギさまが、アマテラスさまに高天原の全権を委ねたあと、最終的に隠居された場所というのが、記紀によってそれぞれ違う場所ということに関しては大変興味があります。
古事記では、多賀大社ー「イザナギの大神は淡海(おうみ)の多賀にいらっしゃる」
日本書紀では、伊弉諾神宮ー「幽宮を淡路の洲に構った」
と記されています。
※ただし、この「淡海」は「淡路」の誤記だと近年言われています。
伊弉諾神宮の所在地は「兵庫県淡路市多賀」です。
一方で、誤記ではなく古事記ならではの意図があるのだと、「多賀大社」の成立から考えると、なるほど興味深い思惑がありますが、この部分はいずれどこかで記しましょう...
伊弉諾神宮参拝の前に摂社の「濱神社」に参拝しました。
境内でもっとも目を引いたのがこの石。
「陰陽石」だそうです。
陰石とは女性のシンボルだそうです。
ほかにも気になる石が…
さて、いよいよ伊弉諾神宮です。
それは、清らかな空間でした。
言葉で表現しようと思っても、どこか空しく、無力な気がしてしまい....
暫くは写真でご紹介していきます。
森とは杜であり、また、杜は森であります。
森にも杜にも、神々が宿ります。
それがとてもよくわかる環境でした。
ある意味で伊弉諾神宮は今回参拝の大きな目玉でした。
ここに最後にしっかり参拝ができて良かった。
顕かに、日本国の発祥はこの場所にあり、ここは基本なんだと、そのことに確信がもてましたし、更に言えば、イザナギさまがいらっしゃるのは多賀大社ではなく、こちらの「多賀」なのだと...
ところが...
なんとこのツアーには続きがありました。
山田祥平さんとERIさんの今回の最終目標地はここではりませんでした。
それは...
淡路の西側にある明神崎の
西浜大明神でした。
みさきの小高い丘の上にあります。
眼下には穏やかな海。
それだけでなく根が岩を割って生えている樹木。
優しさと強さが融合しています。
ここはなんなのでしょう??
ふと脳裏を掠めたのが「七夕」
七夕は中国では、ご存じの通り、「牽牛と織女」ですが、日本神話では、そのモデルになったかたは残念ながら特定できません。
ですが、古代史はロマン、神話はロマンスです。
特に日本の神話の軸は「愛」です。
イザナギさまとイザナミさまは仲違いをされましたが、その後仲直りをされました。
しかし、各々は住むところ、支配するところが別々になってしまいました。
なので、年に一度(かどうかはわかりませんが分かり易いので...)こうして会いに来られるのです。
海の向こうからこの西浜に来られて、イザナギさまは多賀のお社から出てこられ、ここでお会いになられる。
いや、もしかしたら、先ほどわたくしがイザナミさまを感じた「濱神社」がその場所なのかも??
これが続いている限り、日本の国は安泰なのではないかとまったく勝手にそう思いました。
最後は愛に包まれた、いや、最初から愛に包まれたツアーだったのですが、中々気づかず、ツアーの一番最後で、そのことに気づきました。
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